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「あんじん」を与える「ちから」 [「『正信偈』ふたたび」その50]

(10)「あんじん」を与える「ちから」

「ちから」についてもう少し考えてみたいと思います。たとえば「万有引力」。これはもの同志が互いに引きあう力で、ぼくは地球に引かれていますから、地球から落っこちることなく生きています。そんなことはニュートンが言ってくれたおかげではじめて知ることができたのですが、それを知ってからはわが身にそのような力がはたらいているのだと感じることができます。さてこの力(はたらき)は「何か」の力でしょうか。たとえばぼくが誰かの手を引くとき、この力は「ぼく」の力と言えるでしょうが、万有引力にはそのような「何か」があるでしょうか。

地球がぼくを引いているのだから、それは地球の力ではないかと言われるかもしれませんが、地球自身にそのような力があるわけではありません。ぼくが誰かの手を引くように、地球がぼくを引いているのではありません。ではぼくを地球に引きつけている力とは何かといいますと、それは「何か」の力ではなく、ぼくと地球との間にはたらいている力と言うしかありません。しかもこの力はぼくと地球との間にだけはたらいているのではなく、ありとあらゆるもの同士にはたらいていますから(たとえば、ぼくには月との間の引力もありますから)、この力はますます「何か」の力とは言えなくなります。

さて「ほとけのいのち」です。

われらに「あんじん」を与えてくれる「ちから」を「ほとけのいのち」の「ちから」と言っているのですが、これまた万有引力と同じく「何か」の力であると考えることはできません。われらに「あんじん」を与える「ちから」をもつ「何か」があるわけではないということです。その「ちから」は「わたしのいのち」と他のあらゆる「わたしのいのち」たちとが互いにつながりあうなかにはたらいており、それがわれらに「あんじん」を与えてくれるということです。その「ちから」を便宜上「ほとけのいのち」の「ちから」と呼んでいるだけです。

親鸞の最晩年のことばとして「弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり」(『消息集』第14通、いわゆる自然法爾章)というものが伝えられていますが、これは、阿弥陀仏とはどこかにある「何か」ではなく、われらはみな不思議な「ちから」によって生かされているという自然のありようを言うために便宜上そのように呼ばれているだけであると言っているのではないでしょうか。

(第5回 完)


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