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本文22 [はじめての『尊号真像銘文』(その104)]

(7)本文22

日本源空聖人真影
 四明山権律師劉官讃、「普勧道俗念弥陀仏 能念皆見化仏菩薩 明知称名往生要術 宜哉源空慕道化物 信珠在心心照迷境 疑雲永晴仏光円頂 建暦壬申三月一日」

 四明山(比叡山)権律師(ごんりっし)劉官(隆寛)の讃、「あまねく道俗を勧めて弥陀仏を念ぜしめたまふ。よく念ずればみな化仏菩薩を見たてまつる。あきらかに知りぬ、称名は往生の要術なることを。宜(よ)きかな源空、道を慕ひ、物を化したまふ。信珠心にあれば、心迷境を照らし、疑雲永く晴れ、仏光頂に円かなり。建暦(けんりゃく)壬申三月一日」

 「普勧道俗念弥陀仏(ふかんどうぞくねんみだぶつ)」といふは、「普勧」はあまねくすすむとなり。「道俗」は道にふたりあり、俗にふたりあり。道のふたりなり、一には僧、二には比丘尼なり。俗にふたり、一つには仏法を信じ行ずる男なり。二つには仏法を信じ行ずる女なり。「念弥陀仏」と申すは、尊号を称念するとなり。「能念皆見化仏菩薩(のうねんかいけんけぶつぼさつ)」と申すは、「能念」はよく名号を念ずとなり。よく念ずと申すはふかく信ずるなり。「皆見」といふは、化仏・菩薩をみんとおもふ人は、みなみたてまつるなり。「化仏菩薩」と申すは、弥陀の化仏、観音・勢至等の聖聚なり。「明知称名(みょうちしょうみょう)」と申すは、あきらかにしりぬ、仏のみなをとなふれば「往生」すといふことを「要術」とすといふ。往生の要には如来のみなをとなふるにすぎたることはなしとなり。(以下、本文23につづく)

 「普勧道俗念弥陀仏」の「普勧」とは「あまねくすすめる」ということです。「道俗」の道には二人あり、俗にも二人あります。道の二人とは、僧と尼僧です。俗の二人とは、仏法を信じて行う男と女です。「念弥陀仏」とは尊号を称名することです。「能念皆見化仏菩薩」の「能念」とは、よく名号を念ずることです。よく念ずるとは、深く信ずることです。「皆見」とは、化仏や菩薩を見ようと思う人はみな見られるということです。化仏や菩薩といいますのは、弥陀の化仏や観音・勢至等の菩薩たちです。「明知称名」といいますのは、あきらかに知ることができるというのです。何を知るかと言いますと、仏のみ名を称えれば往生することができる、それが往生の要術だということを、です。往生のためには、如来のみ名を称えるに過ぎたことはないというのです。

タグ:親鸞を読む
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