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他力ということ [正信偈と現代(その131)]

(2)他力ということ

 ここであらためて確認しておきたいと思いますが、往生すること、すなわち浄土へ往くのは死んでからではありません。聖道門は「現生の悟り」、浄土門は「来生の往生」、という伝統的な二分法を覆したのが親鸞であることをこれまで縷々述べてきました。聖道門と浄土門の違いは、真実の気づきをどう語るかの違いにすぎず、龍樹が難行道・易行道を区別したのも、真実の気づきそのものを二つに分けたのではなく、その語り方の違いを述べたのにすぎないのです。
 真実の気づきが信心に他なりませんが、第2句に「正定の因はただ信心なり」とありますのは、浄土へ往くのも、浄土から還ってくるのもみなその信心によるということです。真実の気づきが因となって、そのとき往生することができるのです。現生に信心し、来生に往生するのではありません。信心すること(本願に気づくこと)がそのまま往生することです。第18願の成就文に「願生彼国、即得往生、住不退転(かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生をえ、不退転に住す)」とありますが、その「即得往生」を「来生に往生することがさだまる」と生ぬるく理解すべきではありません、「今生にしてすでに往生がはじまる」と理解すべきです。
 本願を信ずるとき(本願に気づくとき)に往生がはじまる。もう一歩ふみこんで言えば、すでに往生がはじまっていることに気づくのです。信心とは、これまではただ「わたしのいのち」を生きていると思っていたのが、そうではなく「ほとけのいのち」を生きていることに気づくということです。さて、この信心も往生も他力によるものであるということ、これを明らかにしてくれたのが曇鸞です。『論註』の末尾で曇鸞はこの「他力」を論じているのですが、親鸞はそれを「往還の回向は他力による」ということばに約めているのです。

タグ:親鸞を読む
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