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仏と仏とあひ念じたまへり [『教行信証』精読(その34)]

(9)仏と仏とあひ念じたまへり

 最初の引文は『無量寿経』の序分からです。序分とは、本格的な説法(正宗分‐しょうしゅうぶん‐と言います)がはじまる前に、どのような状況の下で説法が行われたかを述べる序説のことですが、親鸞は『無量寿経』が釈迦出世の本懐をあらわす真実の教であることの証拠を正宗分からではなく序分から引いてきます。阿難が登場してきます。
 阿難(アーナンダ)は釈迦の年若い従弟で、釈迦入滅まで20年余つねにその傍にあり、十大弟子の中で多聞第一とされた人ですが、その阿難がある日、釈迦が「姿色清浄にして光顔巍巍」としているさまをみて、「いまだかつて瞻覩せず、殊妙なることけふのごとくましますをば」と驚き、これはきっと釈迦が何か特別な禅定(奇特の法)に入っておられるからに違いない云々と述べる段です。
 古来ここは五徳瑞現(ごとくずいげん)の段とよばれ、五徳の意味についていろいろ注釈されてきましたが(すぐ後に出てくる憬興の『述文讃』の引文もそのひとつです)、ここで注目したいのは「去来現の仏、仏と仏とあひ念じたまへり(仏々相念)。いまの仏も諸仏を念じたまふことなきことをえんや」の一文です。
 釈迦がこんなにも「姿色清浄にして光顔巍巍」としておられるのは、他の仏たちと交流しておられるからに違いないと阿難は述べているのです。われらの個々のいのちはそれぞれが他から独立した「わたしのいのち」ですが(デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」というときの「われ」です)、それに対して「ほとけのいのち」はひとつに繋がりあっているということです。
 これは、これから釈迦が弥陀の本願・名号について説きはじめることの伏線となっているのではないでしょうか。釈迦は他のほとけたち(とりわけ阿弥陀仏)と「ひとつのいのち」となり、「仏と仏とあひ念じたまへ」るがゆえに、弥陀の本願・名号について、あたかも自分のことであるかのように語り伝えることができるということです。

タグ:親鸞を読む
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