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能動と受動 [『唯信鈔文意』を読む(その18)]

(4)能動と受動
 
 親鸞は信じるということを「本願他力をたのみて自力をはなれたる」と述べていました。本願を信じるというのはどういうことかを、他力と自力ということばをもちいて言い表したわけです。これは、ほんとうの信心とはそのようなものですと言っただけですが、ここにきてさらにはっきり「自力の智慧をもては大涅槃にいたることなければ」と自力を切り捨てます。
 何か非常に断定的な響きがして、アプリオリにものを言うという印象を受けます。「誰でも自力によって涅槃に至るなどということはありません」とピシャリと言う。何の根拠も示さず、そういうものだと言い切る。ここで「どうしてそんなことが言えるのか」という反発が出てきてもおかしくないでしょう。
 普通はもっと穏やかに、この五濁悪時においては、もはや自力で涅槃をえることは難しく、他力をたのむしかありません、というように説いていくものでしょう。ところが親鸞は何の前置きもなく、自力で涅槃に至ることはありませんから、弥陀の光明と名号が与えられているのです、と言い切ります。
 そこで改めて問いましょう、なぜ自力ではダメなのかと。
 文法の能動態と受動態を手がかりに考えてみたいと思います。目的語をとる他動詞には能動態と受動態があります。能動態とはこちらから相手に働きかけるかたちで、受動態は相手から働きかけられるかたちを言います。このふたつのかたちには相互性があり、能動態があれば受動態もあり、受動態があれば能動態もあります。どちらか一方だけということはありえない、ように思えます。
 さてしかし「救う」という動詞はどうでしょう。


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