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神鸞とこそ号せし [はじめての『高僧和讃』(その55)]

(13)神鸞とこそ号せし

 続く五首を一気に読みます。この五首はみな道宣の『続高僧伝』をもとにして詠われています。

 「魏の主勅して并州(へいしゅう)の 大厳寺(だいがんじ)にぞおはしける やうやくをはりにのぞみては 汾州(ふんしゅう)にうつりたまひにき」(第26首)。
 「帝の命で并州の、大巌寺にてすまいされ、おわりのときにのぞんでは、汾州の地にうつられた」。

 「魏の天子はたふとみて 神鸞(じんらん)とこそ号せしか おはせしところのその名をば 鸞公巌(らんこうがん)とぞなづけたる」(第27首)。
 「帝は曇鸞うやまって、神鸞の名をたてまつり、教えを説けるその地をば、鸞公巌となづけらる」。

 「浄業さかりにすすめつつ 玄中寺にぞおはしける 魏の興和(こうか)四年に 遥山寺(ようさんじ)にこそうつりしか」(第28首)。
 「人に念仏すすめつつ、玄中寺にてすまいされ、亡くなるとしにあたっては、遥山寺へとうつられた」。

 「六十有七ときいたり 浄土の往生とげたまふ そのとき霊瑞不思議にて 一切道俗帰敬しき」(第29首)。
 「六十七のおんとしに、往生浄土とげられた。そのとき不思議おこっては、みな一様に敬えり」。

 「君子ひとへにおもくして 勅宣くだしてたちまちに 汾州汾西秦陵の 勝地に霊廟たてたまふ」(第30首)。
 「帝はおもくうけとめて、すぐさま命を下しては、汾州の西・秦陵の、よき地にご廟たてられる」。

 曇鸞伝に五首もついやしているところに、親鸞の曇鸞への傾倒ぶりがうかがわれます。そしてときの皇帝が曇鸞を敬って神鸞とよんだということは親鸞にとって感慨深いものがあったと思われます。

タグ:親鸞を読む
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