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「ねばならない」ということ [『末燈鈔』を読む(その95)]

(14)「ねばならない」ということ

 「信か行か」について言えることは「信も行も」についても言えます。「信も行も」が、信だけではダメだし、行だけでもダメ、両方揃ってはじめてよろしい、ということでしたら、これも「ねばならない」という前提に立っています。「信じなければならない、そしてその上で行じなければなりません、そうすれば往生できます」。なんだかホップ、ステップ、ジャンプのような感じです。これが親鸞浄土教からどれほど遠いか、もう繰り返す必要はないでしょう。
 さてしかし、このように信も行も如来にはからわれているとしますと、ぼくらにはもう何もすることがなくなるような気がします。そして何もかも向こうからはからわれているのをただいただくだけでいいのだろうかと思うのです。何かしなければならないことがあるのではないかと不安になってくる。こんなふうに、ぼくらは骨の髄まで「ねばならない」病が染み込んでいると言わなければなりません。
 どうしてそうなるのかと言いますと、ぼくらは生きていくためにさまざまなものをゲットしなければならないからです。食べものをゲットし、衣服をゲットし、住む場所をゲットし、仕事をゲットし、恋人をゲットし、などなど。そこから往生もゲットしなければならないとなり、そのためには信と行が必要であるというように頭が働くのです。これから何かをゲットするとなりますと、あれをしなければならない、これをしなければならないと、「ねばならない」が次々に押し寄せてきます。何もしないでいるなんてことは考えられない。
 しかし本願はゲットするものではありません、ゲットされるものです。ふと気がついたら、すでにゲットされていた。あるとき「帰っておいで」の声が聞こえ、「ああ、救われた」と思う。そこには「ねばならない」はありません。

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