SSブログ
『ふりむけば他力』(その65) ブログトップ

「わがもの」への執着 [『ふりむけば他力』(その65)]

(4)「わがもの」への執着

 デカルトは世界から超然としてたつ「わたし」は「ある」と言うのに対して、仏教ではそのような「わたし」は「ない」と言いますから真逆ですが、そのような「わたし」に注目して、そこに思想の軸足を置くことでは共通しています。そこで両者がどのような経緯で「わたし」に目を向けるようになったのかをあらためて確認しておきたいと思います。デカルトの場合は、これまで見てきましたように、すべての学問の堅固な基礎となるべき確実な真理を見いだすために、少しでも疑いの残るようなものはすべて投げ捨て、これはもう絶対に疑えないと言えるものがひとつでも残らないかと調べてみたのでした。そして見いだされたのが「わたし」であったわけです。
 一方、仏教はどうかと言いますと、その動機はきわめて実践的です。前に少し触れました四諦説を手がかりとしますと、その出発点は「一切皆苦」です。生きることはそのすべてが苦しみであるということ、ここからスタートします(生きることには楽しいこともあるではないかと言われるかもしれませんが、それは見かけだけで、苦受はもちろん楽受も苦しみであるとします)。そして苦しみの元は何かと言うと渇愛であると言います。渇愛とは「わがもの」に執着することです。釈迦のことばとして「(何ものかを)わがものであるとして執着して動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。これを見て、『わがもの』という思いを離れて行うべきである」(『スッタニパータ』)とありますが、この「わがものであるとして執着する」ことがすべての苦しみの元にあるというのです。
 さてではどうして何ものかを「わがものであるとして執着する」のかといいますと、言うまでもなく「わたし」がそれを手に入れたからです。誰かからもらったかもしれませんが、それも広い意味で「わたし」が手に入れたということです。で、「わたし」が手に入れたのだから、それは「わがもの」であるとされ、誰かがそれを奪いでもしたら、激しい怒りにとらわれます。かくして「わがものへの執着」の元には「わたしへの執着」があることが分かります。もし「わたしへの執着」がなければ、「わがものへの執着」もなく、誰かがそれを勝手にもっていっても何とも思わないでしょうから。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『ふりむけば他力』(その65) ブログトップ