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虚心平気 [『歎異抄』を聞く(その107)]

(7)虚心平気

 満之が言っていますのは、「業報にさしまかせる」とは、何も思わず、何もしないで、ただじっとしているということではなく、そのときどきのこころの動きのままに身をまかせるということです。大地震が来たとき、ただ茫然とその場にうずくまるのではなく、走り出ようというこころが動けば、そのこころのままに一目散に走り出るし、その場に居ようというこころが起これば、そこに居つづける。もしこころがどちらにも動かなければ、動くのを待つ、ということ。孔子の言い方では「心の欲するままにしたがう」ということです。
 肝心なことは、走り出るにせよ、そこに居つづけるにせよ、狂乱することなく「虚心平気」であるということですが、どうして「虚心平気」でいられるのか。それは満之によりますと「無限大悲の指令」にまかせているからです。ここに鍵があります。宿業を自覚し、宿業にすべてをゆだねることは、本願に目覚め、本願にすべてをゆだねることに他ならないということです。しかしこんなことを言いますと、とうぜん疑問の声が出ることでしょう、宿業と本願との間にどんなつながりがあるというのか、どうして宿業にまかせることが本願にまかせることなのか、と。
 ちょっと先を急ぎすぎたようです。もういちど宿業を自覚するところに戻りましょう。よきこともあしきことも、みな宿業のもよおしによると自覚するのは、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界、よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなし」と思い知るからでした。さてしかし、こころの中のどこを探しても「まことあることなし」と自分で思い知ることはできません。自分で思い知ったという以上、「まことあることなし」ということ自体はまことであると思っているはずで、少なくともこの一点はまことであることになり、ここには深刻な矛盾が生じます(これまで「嘘つきのパラドクス」として紹介してきたことです)。
 「みなもてそらごと、たわごと、まことあることなし」がナンセンスではないとしますと、これは自分で思い知ったことではなく、どこか向こうから思い知らされたと考えるしかありません。そしてそれは、「まことあることなし」と思い知らされたとき、そこにはすでにひとつの「まこと」が与えられているということを意味します。

タグ:親鸞を読む
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