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悪業なくはすなはち罪業なけん [「信巻を読む(2)」その110]

第10回 無根の信

(1)悪業なくはすなはち罪報なけん

釈迦の説法のつづきです。

大王、頻婆沙羅むかし悪心ありて、毘富羅山(びふらさん)にして遊行し、鹿(しし)を射猟して曠野に周遍(歩きめぐる)しき。ことごとく得るところなし。ただひとりの仙(仙人)の五通(五神通、天眼通・天耳通・宿命通・他心通、神足通)具足せるを見る。見をはりてすなはち瞋恚(しんに、いかり)悪心を生じき。《われいま遊猟す。得ざるゆゑは、まさしくこの人の駆逐して去らしむに坐(よ)る》と。すなはち左右(さう)に勅して(家来に銘じて)これを殺さしむ。その人終りに臨んで瞋(しん、怒り)を生ず。悪心あって神通を退失して誓言をなさく、《われ実に辜なし。なんぢ心口をもつて横に戮害(ろくがい、殺害)を加す。われ来世において、またまさにかくのごとく還って心口をもつてして、なんぢを害すべし》と。時に王、聞きをはりて、すなはち悔心(けしん)を生じて死屍を供養しき。先王かくのごとくなほ軽く受くることを得て、地獄に堕ちず。いはんや王しからずして(まして王は殺せと命じたのではないから)、まさに地獄の果報を受くべけんや。先王みづから作りて、還ってみづからこれを受く。いかんぞ王をして殺罪を得しめん(どうして王に殺害の罪があるだろうか)。王のいふところのごとし。父の王辜なくは、大王いかんぞ、失(とが)なきに罪ありといはば、すなはち罪報あらん。悪業なくはすなはち罪報なけん。なんぢが父先王、もし辜罪(こざい)なくは、いかんぞ報あらん。頻婆沙羅、現世のなかにおいて、また善果(王であること)および悪果(殺されたこと)を得たり。このゆゑに先王またまた不定なり(善とも悪とも決まらない)。不定なるをもつてのゆゑに殺もまた不定なり(殺すこともまた善とも悪とも決まらない)。殺不定ならば、いかんしてかさだめて地獄に入らんといはん。

注 ここには若干の混乱があり、次のように読むのが普通です、「父の王、辜なくは、大王いかんぞなしと言はん。それ罪あるものはすなはち罪報あり」と。その意味は「父の王に罪がないと言われますが、どうしてないと言えるでしょう。罪があるものには、その罪報があります」となります。


タグ:親鸞を読む
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