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子の母をおもふがごとくして [『浄土和讃』を読む(その193)]

(5)子の母をおもふがごとくにて

 「自分にだけ呼びかけられている」と感じてはじめて本願が届いたと言えます。それをうたうのが次の和讃です。

 「子の母をおもふがごとくにて 衆生仏を憶すれば 現前当来とほからず 如来を拝見うたがはず」(第115首)。
 「子どもが母を慕うよう、衆生如来を念ずれば、ここを去ること遠からず、如来かならずおわします」。

 「現前当来とほからず 如来を拝見うたがはず」とはどういうことか、ちょっと意味がとりにくいところです。現前とは「いま目の前に」ということで、現前三昧(般舟三昧、はんじゅざんまい)と言いますと、仏をありありと眼前に見ることです。一方、当来とは将来ということですから、いま見ることはできないが、将来、いのち終った後に相まみえることができるだろうということです。としますと「現前当来とほからず」とは、たとえいま眼前に拝見することはできなくとも、本願がこころにしっかり届くと、もう間近に拝見しているのと何も変わらないということでしょう。
 「子の母をおもふがごとくにて」という句が心憎い。
 親鸞は自分の母親についてひと言も語っていませんし、覚如の『伝絵(でんね)』にもまったく言及がなく、分からないというしかありませんが、ただ高田派の『正明伝(しょうみょうでん)』に親鸞8歳のとき亡くなったという記述があり、それが伝承として流布しているようです。もし親鸞が幼少にして母をなくしたとしますと、この一句は、子・親鸞が亡き母を思うように、と読むことができます。母の姿を実際に見ることはもはやできませんが、母の子を思うこころはしっかり子に届いているでしょうから、母のことを思うにつけ、母は目の前に現われてくれるに違いないと。
 『観経』において釈迦が韋提希に語ることばが蘇ります、「汝よ、いま知るやいなや。阿弥陀仏のここを去ること遠からざるを」。あるいは曽我量深氏の次のことばが耳に残っています、「浄土は彼岸にあれども、浄土の門は此岸にあり」。「いまここ」が浄土ではありませんが、浄土の門は「いまここ」でくぐるのです。

タグ:親鸞を読む
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