SSブログ
「親鸞とともに」その88 ブログトップ

これあるに縁りてかれあり [「親鸞とともに」その88]

(2)これあるに縁りてかれあり

もう一つ「縁起」ということばを取り上げておきましょう。「プラティーヤ・サムトゥパーダ(prati()tya-samutpa()da)」という梵語を訳したもので、「縁りて起る」こと、先の因縁と同じ意味です。このことばについては『小部経典』「自説経」にこうあります、「これあるに縁りてかれあり。これ生ずるに縁りてかれ生ず」と。「これ」と「かれ」は因果(縁起)の関係にあるということですが、ここでもこの因果(縁起)と原因・結果はまったく異なる概念であることに注意が必要です。もしこれが同じでしたら、「なにごとも因果(縁起)の関係にある」という仏教の因果思想と、「どんな出来事にも原因がある」とする近代ヨーロッパの科学思想は同じであることになり、仏教の独自性はどこかに吹き飛んでしまいます。

さてしかし「これあるに縁りてかれあり。これ生ずるに縁りてかれ生ず」と「これが原因となってかれという結果が生まれる」とは一見したところよく似ています。どう違うのでしょう。仏教の四諦説(諦とは真理です)で考えてみますと、第一諦「苦諦」は「生きることはみな苦である」という真理、第二諦「集諦」は「苦のもとは煩悩(渇愛)である」という真理、第三諦「滅諦」は「煩悩がなくなった境地が涅槃寂静である」という真理、そして第四諦「道諦」は「そこに至る方法が八正道である」という真理ですが、第二諦の「集諦」に縁起の関係が見られます。「煩悩があることに縁り苦がある」という関係ですが、さてこれを「煩悩が原因となって苦という結果が生まれる」とするのと、どういう違いがあるかということです。

まず了解できますのは、「原因と結果」は時間的な関係であるということです、煩悩という原因が時間的に先立ち、その結果として苦が生まれてくるのですから。したがってこの関係は不可逆的で、煩悩から苦が生まれるのであり、逆に、苦から煩悩が生まれることは決してありません。そしてこの関係は必然的であり、煩悩という原因があれば、必ず苦という結果が生まれ、そこに例外はありません。そこから、こんな実践的指針を得ることができます、苦をなくそうとすれば、その原因である煩悩を断てばいい、と。原因・結果の概念の本質はこの実践的有効性にあると言っていいでしょう。近代科学がこの概念の上に巨大な伽藍を打ち立てることができたのはそのためです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「親鸞とともに」その88 ブログトップ