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因縁と原因 [『歎異抄』ふたたび(その69)]

(7)因縁と原因

 因縁と原因の一目でわかる違いは、因縁は姿をあらわしてはじめてそれを知ることができ、前もっては知ることができないのに対して、原因は前もってそれを知ることができるという点にあります。
 縁ということばは、たとえば「ああ、ご縁があったのですね」というように言います。これはある縁に出あって、はじめてその存在を知ることができたということです。これまで全然気がつきませんでしたが、こんなご縁があったのですね、と喜んでいます。そして、これからのことについては、「もしご縁がありましたら」というように言います。これは、ご縁があるかどうかは分かりませんが、もしありましたら、ということで、縁は前もって知ることができないことを表現しています。一方、原因はそれを前もって(知ろうとすれば)知ることができます。知ろうとしても分からないことはざらにありますが、それは、残念ながら今のところ知ることができないということで、いつかきっと知ることができると思っています。
 この違いは、原因は「知る」ものであるのに対して、因縁は「気づく」ものであることを意味します。
 「知る」と「気づく」。これまでも繰り返し述べてきたことですが、その違いをひと言でいいますと、「知る」は「こちらからゲットする」ことであるのに対して、「気づく」は「むこうからゲットされる」ことです。そして「こちらからゲットする」ことは「これから」であるのに対して、「むこうからゲットされる」ことは「もうすでに」です。知ることは「これから」知ろうとして知るのであり(すでに知っていることも、「これから」知ろうとしたから知ることができたのです)、一方、気づくことは「ああ、そうだったか」と「もうすでに」気づいています(これから気づこうとして気づけるものではありません)。
 「つくべき縁」も「はなるべき縁」も、その縁に遇ってはじめて「ああ、そういう縁だったのか」と気づくのであり、こちらからどうこうできるものではありません。

タグ:親鸞を読む
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