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わが宗こそすぐれたれ [『歎異抄』ふたたび(その33)]

(10)わが宗こそすぐれたれ

 ただひとつの真理にゲットされた人は争わないということに関係した話題が第12章で取り上げられますので、先回りして見ておきましょう。
 前に言いましたように、第11章以後は「上人の仰せにあらざる異義ども」が八か条上げられますが、第12章では「経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと」がテーマとなります。「ただ念仏」するのではなく、経釈を読み学ばなければ往生できないとする考えについて、「この条、すこぶる不足言の義といひつべし」と批判されるのですが、そのなかで、「専修念仏のひとと聖道門のひと、法論をくはだてて、わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなり」と争いあうことについて、それは「みづからわが法を破謗する」ことではないかと指摘されます。
 そして次のように述べられます、「たとひ諸門こぞりて、念仏はかひなきひと(甲斐性のない人)のためなり、その宗あさし、いやしといふとも、さらにあらそはずして、われらがごとく下根の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じ候へば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには最上の法にてまします」と答えるべきだと。ここには「争わない」というスタンスが分かりやすく丁寧に示されています。自分でその法門をゲットしたのであれば、他からそれを非難されたら、当然立ち向かっていくべきでしょうが、そうではなく、自分はその法門にゲットされ、それに深く頷いているだけですから、争う必要など微塵もないということです。
 これは宗派間の争いだけでなく、さまざまな宗教間の争いについても言えます。宗教には排他性がつきまとい、ことあるごとに「わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなり」という争いが絶えませんが、もしほんとうにただひとつの真理にゲットされたのであれば、争いなどおこるはずがないと言わなければなりません。それぞれの宗教を信じる人が「ただひとつの真理」にゲットされ、それに深く頷いているだけのことです。世にさまざまな宗教があるのは、ゲットされた「ただひとつの真理」をどのように語るかの違いにすぎません。
                (第3回 完)

タグ:親鸞を読む
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