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はからいがない [『歎異抄』ふたたび(その91)]

(2)はからいがない


 「はからふ」ということばを辞書でしらべてみますと、「はかる」に「ふ」という接尾辞がついたもので、そして「はかる」とは「おしはかる」「見当をつける」という意味だとあります。考えてみますと(考えてみるまでもないことですが)、われらはあさ目が覚めてからよる眠りにつくまで、つねにあれやこれやとはからっています。われらに意識があるということは、取りも直さず、何かをはからっているということで、はからわなくなったということは、もはや意識がなくなったということです。そしてはからいがあるところ、かならず「わたし」がいます。はからいだけがあって「わたし」がいないということはありません(それは不思議のアリスの世界の話です)。デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったのはこのことで、これは「われはからう、ゆえにわれあり」と言い換えることができます。


としますと「わたしのはからいがない(義なき)」ということはどういうことか。それは意識がなくなり「わたし」もなくなるということでしょうか。それではもはや生きているとはいえなくなるのではないでしょうか。


そうではありません。われらはつねに何かをはからっています、そしてそこにはちゃんと「わたし」がいます。それは紛れもないことで、それが生きるということです。でもその「わたしのはからい」がすべて「ほとけのはからい」のなかにあるということ、これです。われらはすべて「わたしのはからい」だと思っていますが(いや、正確に言いますと、そんなふうに意識することなく、ただひたすらはからっているのですが)、あるときふと、それが一切合切「ほとけのはからい」であることに気づくのです。「わたしのはからい」が「わたしのはからい」でなくなり「ほとけのはからい」になるのではありません。「わたしのはからい」はあくまで「わたしのはからい」なのですが、それがそっくりそのままで、すべて「ほとけのはからい」であると気づくのです。


「わたしのはからい」はそっくりそのままで、それが実は「ほとけのはからい」であると気づく、これが「わたしのはからいがない(義なき)」ということです。



タグ:親鸞を読む
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