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弱みをさらけ出す [『歎異抄』を聞く(その94)]

(7)弱みをさらけ出す

 ぼくらはどうしても人に弱みを見せたくなくて、格好をつけてしまいます。ちっぽけな自分を守ろうとするのです。ところが親鸞という人は、己れの弱みを隠そうとせず、そのままさらけ出します。それは『歎異抄』のことばのような、弟子に語る中だけではなく、『教行信証』という堂々とした主著の中においてもそうであることは、前に紹介しました「かなしきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚のかずにいることをよろこばず、真証の証にちかづくことをたのしまず。はづべしいたむべし」に明らかです。このことばは本願を信ずるとはどういうことかについて様々な角度から論じる「信巻」の途中に突然あらわれ、人を驚かせます。
 動物がごろんと寝転がり、相手に自分の腹を見せることがありますが、これは、もっとも弱いところをさらけ出すことで、敵対する意志のないことを示していると言われます。弱者が強者に服従する儀式のようなものでしょう。しかしよく考えますと、これができるのは弱いからではなく、むしろ強いからではないでしょうか。腹をさらけ出し、そこを食いつかれたら一巻の終わりであることが分かっていて、それができるというのは、ほんとうの意味で強いからに違いありません。逆に、ほんとうに弱い動物は、その弱さを一生けんめい隠し、あたかも強いかのような風を装うのではないでしょうか。でも実際はすぐ見抜かれてやられてしまう。
 弱みを見抜かれないよう必死に隠そうとするのは、犯罪者が逃げ回るのと同じく、苦しいものです。よく逮捕された犯人が「捕まってホッとした」と言いますが、それはもう逃げ回る苦労をしなくていいからです。荒れた学校に赴任したときのことを思い出します。まともに授業をさせてもらえない状況で、何をいちばん怖れたかと言いますと、まともに授業ができないという辛い現実が周りに知られてしまうことでした。「オレは一端の教師である」というプライドを守ろうとして、実際にはまともに授業ができない己れを隠そうと必死になっていたのです。

タグ:親鸞を読む
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