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この義をもつてのゆゑにかならず往生を得 [はじめての『尊号真像銘文』(その80)]

(11)この義をもつてのゆゑにかならず往生を得

 さて最後の「以斯義故、必得往生(この義をもつてのゆゑに、かならず往生を得)」という箇所です。
 「この義をもてのゆゑに」とは、南無阿弥陀仏には、摂論家の人が言うようにただ願しかないのではなく、弥陀の本願という行も具わっているから、ということで、だからこそ「かならず往生を得」と言うのですが、このことばを読みますと、おのずとあの一文が頭に浮び上がります。「一心にもはら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近をとはず、念々にすてざるもの、これを正定の業となづく。かの仏の願に順ずるがゆへに」。法然の眼にこの善導の文が焼き付き、日本に専修念仏の道が切り拓かれた、あの因縁の文章です。
 どうして念仏するだけで往生できるなどと言えるのか、それは仏教の基本スタンスから逸脱しているのではないか。おそらくそのような疑念が薄皮のようにまとわりついていたに違いない法然に、「かの仏の願に順ずるがゆへに」という一句が突き刺さった。そして靄が一気に晴れるように、法然の疑念がさあーっと吹き払われたのではないでしょうか。「そうか、念仏することで往生できるのは、それが弥陀の本願だからなのだ」という電撃が法然の身体を走った。
 どうして念仏するだけで、という疑いが立ち上がってくる根源は、念仏はこちらからするものという思い込みにあります。往生する「ために」念仏するという構図です。この構図で考えますと、ただ念仏するだけで往生できるというのは、いかにも厚かましいように感じられます。往生するにはさまざまな条件があるに違いない、念仏することもそのひとつだろうが、ただそれだけでいいというのはあまりに図々しいでないか、と思うのは自然でしょう。さてしかし、念仏はこちらから称えるものではなく、むこうから称えられるものであるとしたらどうでしょう。
 われらが南無阿弥陀仏と称えるのは間違いありません。でもそれに先立って南無阿弥陀仏はむこうから聞こえてくるのです。われらが念仏するより前に、ずっと昔から念仏されてきて、われらはその歴史に参加させてもらうだけです。だから「かならず往生を得」るのです。

タグ:親鸞を読む
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