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仏智を疑惑するゆゑに [親鸞の和讃に親しむ(その104)]

(4)仏智を疑惑するゆゑに

仏智を疑惑するゆゑに 胎生のものは智慧もなし 胎宮(たいぐ)にかならずうまるるを 牢獄にいるとたとへたり(第71首)

仏智不思議をうたがって おのれに閉じて智慧がなく 胎宮にうまれるものはみな 牢獄にいるようなもの

仏智を疑うがゆえに、「ほとけのいのち」は自分のちからで「つかみ取れる」ものではないという気づきがなく、その結果としていつまでも「牢獄にいる」と詠われます。ここで牢獄と言いますのは、「わたし」という名の牢獄のことです。

仏智に気づいていないものはみな「わたし」という牢獄にみずからを閉じこめているということです。もちろん自分で自分を牢獄に閉じ込めているなどという自覚があるはずはなく、「わたし」は牢獄どころか、むしろわれらの自由の砦です。「わたし」があってはじめて自由と独立があるとして、その砦に立て籠もっているのです。「われ思う、ゆえにわれあり」とはよく言ったものです。われらはみな「わたし」がいることにすべてをかけていることは、「わたし」が無みされたときのことを考えればはっきりします。「わたし」がいるにもかかわらず、まるでいないかのように扱われたときに、どんな風に感じるか。もう墓場に入ってしまったように思わないでしょうか。

さて仏智は「わたし」が牢獄であることに気づかせてくれます。自由と独立の砦だと信じて疑わなかった「わたし」こそ、われらをそこに閉じ込め、ほんとうの意味の自由と独立を奪い取っている牢獄であることに思い至らせてくれるのです。

そのとき何が起こるか。そこが牢獄であることに気づいても、そこから抜け出ることはできません。「わたし」という牢獄は、どういうわけかわれらがそこを生きるべく定められた世界であり、死ぬまでそこから出ることはかないません。ではそれが牢獄であることに気づいても意味がないではないかと言われるかもしれませんが、さにあらず。これまで自由と独立の砦と思い込んでいたのですが、それがとんでもない錯覚であったことが明らかになることで、もういつわりの自由と独立に囚われなくなります。まだ牢獄のなかにいることは変わりませんから、「わたし」が無みされますと激しい怒りがこみ上げてきますが、でも、「ああ、そうだ、牢獄のなかにいるのだ」という気づきが蘇り、怒りもおのずからさめます。しかしその気づきがないとどうでしょう。「わたし」の自由と独立を認めさせようと虚しく争い、苦しみを受けるばかりです。


タグ:親鸞を読む
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