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欲望への意思 [「親鸞とともに」その100]

(3)欲望への意思

われらは「わたしのいのち」を「わたしの意思」で裁量していると思っています。卑近な例ですが、ぼくがパソコンの操作に苦労しているとき、横から妻が「そうじゃなくて、こうするのよ」と口だけでなく手を出してくるとき、ぼくは無性に腹が立ちます。教えてくれているですから、素直に受けとめればいいのに、突発的に怒りが湧き起るのです。それは「わたしの意思」が無視されて、指図されていると感じられるからに違いありません。こんなふうにわれらは、これは「わたしのいのち」であり、「わたしの裁量」で生きていると思っています。そしてそれが自由ということであると。

さてしかし「わたしの意思」といい「わたしの裁量」と言うのはいったい何でしょう。次々と目の前に現れてくる問題に対して、「これはよし」、「これはわろし」とみずから判断することですが、そのことについてスピノザという人はこう言います、「次のことが明らかになる。それは、われわれはあるものを善と判断すれがゆえにそのものへと努力し、意志し、衝動を感じ、欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し、意志し、衝動を感じ、欲望するがゆえにそのものを善と判断する、ということである」と(『エチカ』第三部)。要するに、あるものに衝動を感じ、欲望することが、善し悪しについての「わたしの意思」、「わたしの裁量」を規定しているということです。

われらは「わたしの意思」が第一起点であり、そのことがわれらの自由の根拠だと思いを込んでいますが、その意思とはスピノザの言うように「欲望への意思」であるとしますと、われらはむしろ欲望によって操られているということになります。欲望の命ずるままに右往左往しているとしますと、これは自由どころか、むしろ隷属ではないでしょうか。反論があるでしょう、われらの意思が「欲望への意思」であるとしても、欲望を実現していくことに喜びがあり、そしてそこに自由を感じるのではないのかと。もちろん欲望の実現がうまくいかないこともあり、そのときには悲しみを感じ、不自由を覚えることになるが、生きることには喜びも悲しみもあり、自由を感じることも不自由を覚えることもあるのがわれらの生きるということではないのか、と。


タグ:親鸞を読む
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