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目覚める [『ふりむけば他力』(その35)]

(8)目覚める

 無我にもどりましょう。釈迦はこの無我という教説で、「われ」という思い、「わがもの」という思いを捨てて生きよ、などという土台無理な注文をしているのではありません。われらはもう否応なく「われ」という思い、「わがもの」という思いに囚われて生きているのであり(それが生きるということです)、釈迦が説くのは、そのことにはっきり目覚めよということです。四諦説で言いますと、釈迦は「苦しみをなくすためには煩悩をなくさなければならない」などという無茶なことを言っているのではなく、「あらゆる苦しみの元には煩悩がある」という事実に目を覚ませと言っているのです。この「目を覚ます」こと、ここに仏教の本質があります。
 仏すなわち仏陀はサンスクリットの“Buddha”の音訳ですが、これは「目覚める」を意味する“budh”(ブドゥ)の過去分詞で、仏陀は「目覚めた人」という意味です。仏陀はしばしば「悟りをひらいた人」と訳されますが、「悟る」となりますと「何かをつかみ取った」というイメージになります。しかし元来は「眠りから目覚めた人」です。これまで「われ」という思い、「わがもの」という思いのなかにまどろんでいたのですが、そこから目覚め、それは囚われであることに気づいたのです。そして「目覚めた人」として人々に目覚めを促すのが仏陀です。
 さてここで「われへの囚われ(これを我執といいます)」に「目覚める」ということに着目してみたい。この「目覚め」はどのようにして起るかということです。
 無着(アサンガ)・世親(ヴァスバンドゥ)兄弟によって唯識という仏教学説が打ち立てられました。ざっくり説明しますと、われらは眼識・耳識・鼻識・舌識・身識(触覚のこと)・意識の六識によりものごとを知覚していますが、実は意識にのぼらないはたらきがその深層にあるとされ、それが末那(まな)識(しき)と阿頼耶(あらや)識(しき)と名づけられます。末那識とは自我意識のことで、阿頼耶識はあらゆる知覚の種子となることから種子(しゅうじ)識(しき)ともよばれます。いま考えたいのは末那識で、これがすべての知覚に「われ」を刻印するはたらきをします。これにより、われらのなすことはみな「われ」がなすことになるのです。われらはどれほど認知機能が劣化しても、「われ」が「われ」であることを手放すことはありません。「オレは天皇だ」と錯乱する人も、そう言っているのが「われ」であることだけは絶対に手放しません。これが「われへの囚われ」ということです。

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