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世々生々の父母兄弟 [『ふりむけば他力』(その3)]

(3)世々生々の父母兄弟

 われら人間を含めて生きものは互いに食みあって生きていることを見てきましたが、しかし同時に、生きものはみなひとつにつながりあっています。親鸞の印象的なことばとして「一切の有情(うじょう、生きもの)はみなもつて世々生々(せせしょうじょう、生まれかわり死にかわりしてきた)の父母兄弟なり」というのがあります(『歎異抄』第5章)。生きとし生けるものは父母兄弟としてみなひとつにつながりあっているというのです。
 突然ですが、少年時代の不思議な思い出があります。小学生低学年の頃だったと思いますが、ある日ひまを持て余してぼんやり窓の外を眺めていましたら、家の前の道を見すぼらしい野良犬がトボトボ歩いていました。その動きを追うともなく追っていましたところ、その犬が突然立ち止まってこちらを振り向き、ぼくと目が合ったのです。そのときぼくのこころに不思議な思いが立ち上がってきました、「どうしてこの犬がこの犬で、ぼくはぼくなのだ」と。こういうことです、「この犬がぼくとしてここに坐り、ぼくがこの犬として道をトボトボ歩いていてもいいではないか、それでも世界に何の支障もないではないか」。
 それ以上何も考えることなく、ただ不思議な思いとして記憶に残っただけでしたが、あとからふり返ってみれば、あれはぼくがいのちをひとつにつながりあったものとして感じたということではなかったかと思います。全体がひとつにつながりあっているとすれば、そのなかであの犬とぼくとがそっくり入れ替わったとしても、いのちの総体としては何の違いもないわけです。ひとつにつながりあったいのちのなかで、ぼくはたまたまぼくであり、あの犬はたまたまあの犬として存在しているだけですから、その位置がひっくり返っても何の問題もありません。
 これまた小さい頃の記憶ですが、母があさりの味噌汁をつくろうとして、ぐつぐつ煮立った汁にあさりを入れるとき、目をつぶって南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えていた姿が瞼に焼き付いています。母は自分自身が熱湯のなかに放り込まれるように感じていたに違いありません。母のなかであさりと自分がひとつになっていたのです。

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