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本願ぼこり [『ふりむけば他力』(その51)]

(2)本願ぼこり

 これまで「お前たち悪人が救われる道理はない」と言われてきた人たちにとって「悪人こそ救われる」という親鸞のメッセージはもう天にも昇る心地がしたことでしょう。そこから「ではもう悪に遠慮することはない」となるのも無理はないと言わなければなりません。しかし親鸞はそれを手厳しく批判します。その批判のことばとしてよく知られているのが、親鸞が関東の弟子たちに送った手紙のなかにある「薬あればとて、毒をこのむべからず(本願他力といういい薬があるからといって、悪業という毒をこのんで飲むものがあるか)」という一言です。
 これまで見てきましたように、本願他力に遇いがたくして遇うことができ、「ありがたい」という思いがわき起こるとき、その裏にはかならず「すみません」という慚愧があるはずであり、逆に言えば、「すみません」があるからこそ「ありがたい」となるということです。ところが本願ぼこりの人は「すみません」どころか、「しめた、これで思い切り毒を飲める」と思っているのですから、そこからしますと、そのような人は実は本願他力に遇っていないと言わざるをえません。
 さてしかし唯円はこの章で本願ぼこりの人を問題にするのではなく、本願ぼこりを目の敵とする人たちのことを問題にします。本願ぼこりの人は往生できないと非難する人たちに対して、それはいかがなものかと次のように異議申し立てをするのです。「弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて、往生かなふべからずということ、この条、本願を疑ふ、善悪の宿業をこころえざるなり」と。この言い回しはかなり入り組んでいますので、そこから唯円は親鸞の教えを歪めているという議論が起ってくるように思われます。
 唯円は「本願ぼこりとて、往生かなふべからず」という人に異議を申し立てていますが、しかしだからといって、決して本願ぼこりを是認しているわけではありません。少し後で「そのかみ(かつて)邪見におちたるひとあつて、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、云々」というように、本願ぼこりは邪見であるとはっきり言っています。それは当然のこととした上で、しかし本願ぼこりという邪見の人に対して、そんな輩は「往生かなふべからず」と言っていいものかと疑問を呈しているのです。

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