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6月22日(水) [矛盾について(その323)]

 「機の深信」とは「そのまま生きていていいのか」という問いの前に吊るされることでした。ぼくらは思いもかけずこの問いに遭遇し、その前に吊るされます。そしてどうもがいても自分でこの窮地から脱するすべはありません。
 小さかった頃のことを思い出します。何か悪いことをして真っ暗なお蔵の柱に括りつけられ、そのままにしておかれました。ぼくはもう怖くて仕方なく、声を限りに泣き叫びますが、誰も助けに来てくれそうもありません。でも、泣き疲れた頃、母がこっそりやってきて縛り付けられていた縄をほどいてくれました。今度はその嬉しさにまた泣きくれたのでした。もし母が助けにきてくれなければ、いつまでも暗闇の中に取り残されたままなのですから。
 「機の深信」もそのままで捨て置かれたらどうでしょう。いつまでも暗闇の中に吊るされ続けます。でも心配御無用、「機の深信」は「機の深信」のまま捨て置かれることはなく、必ず「法の深信」のおとづれがあると善導は説きます。しかしどうしてそんなことが言えるのでしょう。お蔵の暗闇の中に取り残されたぼくに母の助けがあったように、「機の深信」の闇に取り残された人には必ず「法の深信」という助けがあるとどんな根拠で言えるのでしょうか。
 もう一度はっきりさせておかなければなりません、「気づき」は自分で手に入れるものではなく、思いがけず向こうからやってくるのです。
 しかし、思いがけず向こうからやってくるのだとしますと、「法の深信」が必ずやってくるという保障などますますないと言わなければなりません。この危惧の念は、いまだ「法の深信」がおとづれていない人のものです。「機の深信」の闇の中に取り残され孤立無援の人は、いまだ「法の深信」という「気づき」がないのですから、いつまでもこのままではないだろうかという不安に苛まれます。

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