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即是其行 [『教行信証』精読(その171)]

(18)即是其行

 摂論家の批判は念仏には「願だけで行がない」というものでしたが、それに対する親鸞の答えは、願も行も弥陀から与えられているということです。われらが願い、われらが行ずるには違いないが、それより前に、弥陀が願い、弥陀が行じてくださっているというのです。その願とは弥陀の本願であり、行とは弥陀の名号です。弥陀はただ「一切衆生を往生させたい」と願うだけではなく、その願いを一切衆生にとどけるために南無阿弥陀仏という名号を整えてくださった。それが弥陀の行であり、第十七願はそのことをこう言います、「たとひわれ仏をえたらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずといはば正覚をとらじ」と。これは、世界中の仏たちがわが名号を称えることで、わが願いが世界の隅々まで届くように手配してあるということです。
 「即是其行といふは、すなはちこれ選択本願これなり」とはそういう意味です。「阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり(即是其行)」という善導の謎のことばをどう理解すればいいかについて、さまざまな解釈が出されてきましたが、浄土宗(鎮西派)では常識的にわれらが南無阿弥陀仏と称えることが行であると捉えているようです。善導は阿弥陀仏が行であると言いますが、これは南無阿弥陀仏の全部をさしており、それを称えることが行であるというのです。これではしかし念仏が往生のためのわれらの行となり、臨終に至るまで暇なく念仏することで往生できることになります。これは親鸞にとって自力念仏に他ならず、第二十願の立場と言わなければなりません。
 そうではなく、願も行もみな弥陀から与えられているのであり、われらとすればただそれに気づけばいいのです。それが信心であり、そしてその喜びはおのずと称名というかたちをとります。弥陀は「一切衆生が往生して救われるように」と願い、そしてそう願うだけでなく、諸仏が南無阿弥陀仏と称えることで、その願いが一切衆生のもとに届くように配慮してくださった。われらとしては諸仏の南無阿弥陀仏が聞こえてくるだけで、もうすでに願も行も備わっているのです。だからこそ「この義をもつてのゆゑに、かならず往生を得(必得往生)」と言わなければなりません。

タグ:親鸞を読む
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