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『歎異抄』を読む(その212) ブログトップ

12月14日(金) [『歎異抄』を読む(その212)]

 では後序の第4段です。
 まことに如来の御恩といふことをばさたなくして、われもひとも、よしあしといふことをのみまうしあへり。聖人のおほせには、善悪のふたつ、総じてもて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころによしとおぼしめすほどに、しりとをしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどに、しりとほしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはしますとこそ、おほせはさふらひしか。まことに、われもひとも、そらごとをのみまうしあひさふらふなかに、ひとついたましきことのさふらふなり。そのゆゑは、念仏まうすについて、信心のをもむきをもたがひに問答し、ひとにもいひきかするとき、ひとのくちをふさぎ、相論のたたかひかたんがために、またくおほせにてなきことをも、おほせとのみまうすことあさましくなげき存じさふらふなり。このむねをよくよくおもひとき、こころえらるべきことにさふらふなり。
 まったく誰も彼も、如来の御恩については何も言わず、「これは善い、これは悪い」ということばかり言い合っています。聖人はこんなふうに言われています。「何が善で何が悪か、そもそも私は知りません。何故かと言いますと、如来の心に善いと思われるほどに知り通しているならば、善を知っていると言えるでしょうし、如来が悪いと思われるほどに知り通しているならば、悪を知っていることになるでしょうが、煩悩具足のわれら、火宅無常のこの世界は、あらゆることがみなそら言、たわ言で、真実など何ひとつありません。ただ念仏だけが真実なのです」とおっしゃいました。まったく誰も彼もそら言を言い合っている中で、ひとつ困ったことがあります。それは、念仏のことや信心のありようを互いに問答し、あるいは人に言い聞かす時に、相手の言い分をおさえ、論争に勝つために、聖人が言われもしないことを言われたように主張することで、これは何ともあきれるほど嘆かわしいことです。これはよくよく考えられ、心得ていただきたいものです。

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