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畢竟じてまさに清浄法身を得べし [「『証巻』を読む」その78]

(5)畢竟じてまさに清浄法身を得べし

曇鸞はそれを譬えるのに、まず「出家の聖人」と「凡夫の出家のもの」を取り上げ、後者は煩悩具足であることにおいては前者と同じではないが、出家しているという点で同じように比丘と呼んで差し支えないと言います。そしてさらに灌頂王子を取り上げ、いまだ転輪王としてのはたらきをしているわけではないが、「かならず転輪王たるべきをもつてのゆゑに」、同じように転輪王と呼んでもいいと言います。そのように「かのもろもろの人天(未証浄心の菩薩)」もまたすでに「大乗正定の聚」に入っているのであり、「畢竟じてまさに清浄法身を得」るのであるから、「まさに得べきをもつてのゆゑに、清浄と名づくることを得るなり」と言うのです。先の箇所でも「すなはちかの仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩、畢竟じて平等法身を得証す」(浄土論)とありましたが、まったく同じ趣旨です。

曇鸞はそこでかなり丁寧に問答を展開していましたが、ここでまた同趣旨の問答を繰り返すということは、曇鸞としてはここにはきわめて本質的な問題があると見ているということでしょう。われらとしても心してかからなければなりませんが、この問答で注目したいのは、曇鸞が灌頂王子の譬えを取り上げていることです。この譬えは龍樹が『十住毘婆沙論』で出しているもので、「初地の菩薩多く歓喜を生ず。余はしからず。なにをもつてのゆゑに。余は諸仏を念ずといへども、この念をなすことあたはず、われかならずまさに作仏すべしと(かならず仏になれると)。たとえば転輪聖子の、転輪王の家に生れて、転輪王の相を成就して、過去の転輪王の功徳尊貴を念じて、この念をなさん、われいままたこの相あり。またまさにこの豪富尊貴を得べし。心大きに歓喜せん」とあります(第1回に取り上げました)。

龍樹は初地が歓喜地である所以を語るなかでこの譬えを出しているのですが、曇鸞は未証浄心の菩薩(初地の菩薩と言い換えても差し支えありません)が「畢竟じて」清浄法身を得ることができることを論じるためにこの譬えをつかっているわけです。


タグ:親鸞を読む
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