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無明煩悩しげくして [親鸞の和讃に親しむ(その84)]

(4)無明煩悩しげくして

無明煩悩しげくして 塵数(じんじゅ、無数ということ)のごとく遍満す 愛憎違順(心に順うものは貪愛し、心に違うものは瞋憎する)することは 高峰岳山(こうぶがくさん)にことならず(第8首)

無明煩悩さかりにて、塵のごとくに満ち満ちる。愛と憎とが入り乱れ、高山のごとそびえ立つ

冒頭の夢告讃で親鸞は「弥陀の本願信ずべし」と受信している(夢告を聞いている)ことに注目しましたが、この和讃でも、親鸞が「われらは無明煩悩しげくして」と発信するに先立ち「汝らは無明煩悩しげくして」ということばを受信していると言わなければなりません。親鸞は「われらは無明煩悩しげくして」ということをみずからゲットしたのではなく、「汝らは無明煩悩しげくして」ということばにゲットされているのです。そもそも「われらの無明煩悩しげくして」ということを「われら」みずから発信することはできません。それは「われは嘘つきである」という言明を考えてみればはっきりします。この言明は、それを言っている「われ」は嘘つきでないことを前提しないと意味をなしません。もしそう言っている「われ」も嘘つきでしたら、「われは嘘つきである」ことも嘘ということですから、何も言っていないことになります。かくして「われは嘘つきである」は、それをみずから発信することはできないということになります。それは「汝は嘘つきである」ということばを受信したものとしてはじめて意味のあるものとなるのです。

『歎異抄』の後序に「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなし」という親鸞のことばが紹介されていますが、これまた親鸞が受信したことばであると言わなければなりません。もしこれを親鸞がみずから発信しているとしますと、このことばもまた「そらごとたはごと」に他なりませんから、何ともならないジレンマに陥ります。したがって、これは親鸞が「汝ら煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなし」ということばを受信し、それを受けて「われら煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなし」と述懐していると言うべきです。親鸞が「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと」であることをゲットしたのではありません、親鸞はそのことにゲットされたのです。

「無明煩悩しげくして」という受信があってこそ、「弥陀の本願信ずべし」という受信もあるのです。前者が「機の深信」、後者が「法の深信」で、この二つは二つにして一つです。


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