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現生十益といわゆる現世利益 [「信巻を読む(2)」その24]

(11)現生十益といわゆる現世利益

二つ目は、親鸞の言う「現生十益」は、よく言われる「現世利益」と同じだろうか、違うとすればどう違うのだろうかということです。たとえば十益の第一「冥衆護持の益」とは、信心を得ることで冥衆に護られ、病気にならないとか災害に遭わないということでしょうか。そうではないでしょう、信心の人も病気になるときは病気になり、災害に遭うときは災害に遭います。そういうことではいわゆる「現世利益」とは異なります。では「冥衆護持の益」とはどういうことかといいますと、たとえ病気になり、災害に遭うとしても、それが生きる上で障礙にならないということです。もちろん病気になり災害に遭うことは辛いことですが、でもその辛さに押しつぶされることなく生きていくことができるということです、そのように護ってもらえるということです。

しかし信心はどうしてそんな力になるのでしょう。その答えは最後の「正定聚に入る益」にあります。信心の人は正定聚としてもうすでに「永遠のいのち」のなかで救われているのですから、たとえ病気になり災害に遭うとしても、それらはみな「永遠のいのち」のなかのことです。これが「冥衆護持の益」ですが、その他の益も同じようにすでに「永遠のいのち」のなかで生かされていることから生まれてくると考えることができます。ところで現生十益のなかで「知恩報徳の益」と「常行大悲の益」はそれ以外の益と毛色が違っていますが、そのことを三つ目として考えておきたいと思います。

その他の益は自分の益すなわち自利ですが、「知恩報徳の益」と「常行大悲の益」は他を利する益すなわち利他です。今生において信心が与えてくれる利益には自利だけでなく利他もあるということは、今生では自利=往相、来生で利他=還相という思い込みをうちやぶってくれます。自利=往相と利他=還相はそのように切り離されているのではなく、自利がそのまま利他であるということです。なぜかといいますと、信心の人とは取りも直さず本願の人すなわち本願をわが願いとして生きる人であるからです。自分の救いと他者の救いがひとつになっている人だからです。

(第2回 完)


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