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誓願不思議をうたがひて [親鸞の和讃に親しむ(その2)]

2.誓願不思議をうたがひて(冠頭讃2)

誓願不思議をうたがひて 御名(みな)を称する往生は 宮殿(くでん)のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまふ(第2首)

弥陀の本願うたがって 南無阿弥陀仏をとなえれば 宮殿のなかで5百年 むなしいときがすぎてゆく

誓願不思議とは誓願(本願)は思議できないということ、それが何であるかをこちらから思いはかることができないということです。すぐ頭に浮ぶのが『歎異抄』冒頭の「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」という文です。ここでは誓願不思議を信じるというのですが、こちらから思いはかることができないようなものをどうして信じられようかと思う、これがこの和讃の「誓願不思議をうたがひて」ということです。近代合理主義の立場からしますと、これはきわめて自然で正常なこころの動きと言わなければなりません。

翻って考えてみますと、「わたし」の存在もまたこちらから思いはかることができないのではないでしょうか。にもかかわらず、われらはそれが存在するとごく当たり前に信じています。「わたし」を思いはかることができないのは、ものを見る眼を見ることができないのと同然です。眼を見ることなど造作もない、鏡で見ればいいではないかと言われるかもしれませんが、それは「見られた眼」であり、それを「見ている眼」ではありません。それと同じように、ものを思いはかっている「わたし」を思いはかることはできません。それにもかかわらず、ものを思いはかっている「わたし」がいることを疑う人はいません。どころか、これほど確かなことはないというのが、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」です。

こちらから思いはかることができないようなものは信じられないと言いながら、「わたし」というどうにも思いはかることのできないものを信じています。弥陀の誓願不思議も同じです。こちらから思いはかろうにも思いはかれない弥陀の誓願を信じることがあるのです。それは、こちらから思いはかれないが、むこうから思いはかられていると気づくということです。こちらからゲットしようとしてもかないませんが、あるときむこうからゲットされている。これが誓願を信じるということで、「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき」(『高僧和讃』)です。


タグ:親鸞を読む
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