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普授ということ [「信巻を読む(2)」その74]

(4)普授ということ

用欽の文は『阿弥陀経』を注釈しているものですが、その『阿弥陀経』にはこうあります、「衆生聞かんもの(浄土と阿弥陀仏と聖者のことを聞くもの)、まさに発願してかの国に生ぜんと願ふべし。ゆゑはいかん。かくのごときの諸上善人(仏や聖者)とともに一処に会する(一処倶会(くえ))ことを得ればなり」と。すなわちかの国に生まれたいと願えば、その願いはみなかなえられるということですが、これを用欽は「普授」と言い、「衆生一生にみな阿耨多羅三藐三菩提の記を得る」と言っていると思われます。第十八願成就文で言いますと、「かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」ということでだれでも本願を信じ往生を願えば、すなわち往生することができ、かならず滅度に至ることができるということ、これが「普授」です。

このように「だれでもみな」往生できるというのが「普授」ですが、さてそれと「本願を信じ往生を願えば」往生できることとはどう関係するのでしょう。「だれでもみな」ということは往生に条件はないということで、「これこれのことをすれば往生できる」ということではないという意味です。ところが、その一方で「本願を信じ往生を願えば」というのですが、これは往生の条件ではないのでしょうか。この問題は前に「(弥陀の)光明はあまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」という『観経』の文に関連して取り上げましたが、浄土の教えの要となることですので、別の角度からあらためて考えておきたいと思います。

「本願を信じ往生を願えば」という言い回しは、「本願を信じ往生を願うことが因となって往生という果が得られる」ということを意味します。もっと短く、「信心が因で往生が果である」ということです。一般に「Aが因でBが果である」ということは、「ABの条件である」と言いかえることができそうです。としますと、信心が因で往生が果であるということは、信心が往生の条件であることになりますが、さてこれはどう考えればいいのでしょう。


タグ:親鸞を読む
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