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人中の妙好人なり [「信巻を読む(2)」その68]

(10)人中の妙好人なり

次は『観経疏』「散善義」からです。

またいはく「〈若念仏者〉より下〈生諸仏家〉に至るまでこのかたは、まさしく念仏三昧の功能(くのう)超絶して、まことに雑善(ぞうぜん)をして比類とすることを得るにあらざることを顕す。すなはちそれに五つあり。一つには、弥陀仏の名を専念することをあかす。二つには、能念の人を指讃することをあかす。三つには、もしよく相続して念仏するひと、この人はなはだ希有なりとす、さらに物(人のこと)としてこれを方(たくら)ぶべきことなきことを明かす。ゆゑに分陀利(ふんだり)を引きて喩へとす。分陀利といふは、人中の好華と名づく、また希有華と名づく、また人中の上々華と名づく、また人中の妙好華と名づく。この華あひ伝へて蔡華(さいけ、蔡は亀のことで、聖人が世に出るとき、白亀が白蓮華に乗って現れると伝えられることから、白蓮華を蔡華という)と名づくるこれなり。もし念仏のひとはすなはちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上々人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。四つには、弥陀の名を専念すれば、すなはち観音・勢至つねに随ひて影護(ようご)したまふこと、また親友(しんぬ)知識のごとくなることを明かす。五つには、今生にすでにこの益を蒙れり、命を捨ててすはなち諸仏の家に入らん、すなはち浄土これなり。かしこに到りて長時に法を聞き、歴事供養(りゃくじくよう、諸仏の国土を巡り、諸仏・菩薩を供養すること)せん。因まどかに果満ず、道場(さとりをひらく場所)の座あにはるかならんやといふことを明かす」と。以上

これは、『観経』の最後の部分に「もし念仏するものは(若念仏者)、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友(しょうう、勝れた友)となる。まさに道場に坐し諸仏の家に生ずべし(生諸仏家)」とあるのを善導が丁寧に注釈しています。この善導の文で注目したいのは、「今生にすでにこの益(観音・勢至に護られること)を蒙れり、命を捨ててすはなち諸仏の家に入らん、すなはち浄土これなり」という箇所です。


タグ:親鸞を読む
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