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『教行信証』精読(その166) ブログトップ

本文4 [『教行信証』精読(その166)]

(13)本文4

 ここまで親鸞は、龍樹、天親、曇鸞、道綽、善導と5人の祖師たちの要文をあいついで引き、「弥陀の名号を称える」ことの意味を明らかにしてきましたが、それにつづいて久しぶりに親鸞自身の注釈を加えます。それは善導の六字釈をもとにして(1参照)、そもそも名号とは何であるかをはっきりさせようとするものです。ここは「行巻」のハイライトと言えるでしょう。

 しかれば「南無」の言は帰命なり。「帰」の言は至なり。また帰説(きえつ)なり1。説の字は、悦の音(こえ)なり。また帰説(きさい)なり2。説の字は、税3(さい)の音なり。悦税二つの音は告(つぐる)なり、述(のぶる)なり、人の意(こころ)を宣述するなり。「命」の言は、業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計(はからう)なり、召(めす)なり。ここをもて「帰命」は本願招喚の勅命なり。(以下、本文5につづく)
 注1 左訓として「よりたのむ」とある。
 注2 同じく「よりかかる」とある。
 注3 舎息(しゃそく、家の中でゆっくり寛ぐ)の意。

 (現代語訳) かくして南無といいますのは帰命ということです。帰ということばは至るということ、弥陀の本願に至るということです。また帰は帰説(きえつ)と熟し、この説は悦(えつ)の音で、悦んで本願に帰すること、つまり「よりたのむ」ということです。また帰は帰説(きさい)と熟し、この説は税(さい)の音で、本願を休みどころとすること、つまり「よりかかる」という意味になります。このように説には悦と税の二つの音がありますが、その意味は「告げる」ということ「述べる」ということで、弥陀がその思召しを伝えるということです。一方、命ということばは、「業」すなわち本願の業力ということ、また「招引」すなわちその願業力がわれらを招き引くということ、また「使」そして「教」すなわち「そうせしめる」という使役の意味であり、また「道」すなわち弥陀が「来れ」と言うこと、また「信」すなわち弥陀からの便りということ、また「計」すなわち弥陀のはからいということ、そして「召」すなわち「来れ」と召すことを意味します。このようなことから帰命とは弥陀の本願がわれらを呼び招いてくださる勅命であることが分かります。

タグ:親鸞を読む
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