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一心ということ [『教行信証』「信巻」を読む(その91)]

(8)一心ということ


先ほど仏教の因果においては因と果は別ものではなく「ひとつ」であると言いました。弥陀の願心が因となり、われらの信心が果として生まれるのですが(これが「如来回向の信心」ということです)、その際、因と果は別々にあるのではなく「ひとつ」になっているということです。弥陀の願心が「ここではないどこか」にあり、それがわれらの信心を生むのではなく、弥陀の願心は「いまここ」にやってきて、われらの信心を生み、そのとき弥陀の願心とわれらの信心は「ひとつ」になっています。としますと、因としての弥陀の願心が果であるわれらの信心を生んだというよりも、弥陀の願心がわれらのもとにやってきて、それがわれらの信心となったということができます。これが「一心としての信心」です。


この関係を明らかにするものとして「火と木の譬え」が役に立ちます。『観経』の「是心作仏、是心是仏(この心作仏す、この心これ仏なり)」ということばを曇鸞が注釈して、こう言います、「〈是心作仏〉とは、いふこころは、心よく作仏するなり。〈是心是仏〉とは、心のほかに仏ましまさずとなり。たとえば火、木より出でて、火、木を離るることを得ざるなり。木を離れざるをもつてのゆゑに、すなはちよく木を焼く。木、火のために焼かれて、木すなはち火となるがごときなり」(『論註』)と。この譬えでは「木」がわれらの「心」で、「火」が「仏」を指しますが、「火」をより具体的に弥陀の「願心」とすることで、われらの信心は弥陀の願心と「一心」であることがよく了解できます。


すなわち、「火、木より出でて」とは、弥陀の願心がわれらの心にやってくるということで、「火、木を離るることを得ざる」とは、弥陀の願心はもうわれらの心から離れることがないということです。そして「木を離れざるをもつてのゆゑに、すなはちよく木を焼く」とは、弥陀の願心はわれらの心を離れることなく、つねにはたらきかけるということで、「木、火のために焼かれて、木すなはち火となる」とは、そのはたらきかけにより、われらの心は弥陀の願心となってしまうということです。このように弥陀の願心はわれらのもとにやってきてわれらの信心となるのであり、両者は「ひとつ」です。



タグ:親鸞を読む
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