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7月2日(火) [はじめての親鸞(その186)]

 コルベ神父の例はあまりに特別なケースだと思われるかもしれません。そこで秋葉原で起こった無差別通り魔事件のとき、たまたまあの交差点で止まっていたタクシーの運転手さんのことを考えてみます。
 赤信号を無視して交差点に突っ込んでいったトラックが次々と通行人を跳ね飛ばした。それを目の当たりにした運転手さんは、とっさにタクシーから飛び出しました。勿論跳ねられてもがいている人たちを助けるためです。ところが倒れた人を介抱していた彼を、トラックから降りて戻ってきた犯人がナイフで刺したのです。
 どうしてそのまま車の中でジッとしていなかったのか、彼も彼の家族もそう思ったことでしょう。しかし、その時の彼の頭の中は空白だったと思います。ただ「生かしめんかな」の声がどこかから聞こえ、彼の身体がその声に反応して「おのずから」動いた。
 彼が助けようとしたというよりも、何かに促されて、気がついたら駆け出していたというのが実情だと思います。彼を促がして駆け出させたのが「あなた」です。現場にいた人たち、あるいは彼のことを伝え聞いたみんなにとって、彼は「あなた」となったのですが、その彼自身が「あなた」の声に促がされているのです。
 コルベ神父が多くの人の「あなた」になり、タクシーの運転手さんも多くの人の「あなた」になってくれたのですが、コルベ神父やタクシーの運転手さんが「あなた」だというわけではありません。彼らには彼らの「あなた」がいるのです。
 太郎は次郎の「あなた」になり、次郎が三郎の「あなた」になり、…、こうして誰かが誰かの「あなた」になります。ある時、ある人に「生かしめんかな」の声を取り次いでくれる人が、その時、その人にとっての「あなた」です。ある人の口から「生かしめんかな」の声が聞こえた時、その人が「あなた」なのです。

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