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罪びとであることの気づき [「信巻を読む(2)」その105]

(8)罪びとであることの気づき

先のところで釈迦は「阿闍世王の為に涅槃に入らず」とあり、ここでは「阿闍世王のために月愛三昧に入れり。三昧に入りをはりて大光明を放つ。その光清涼にして、往きて王の身を照らしたまふに、身の瘡すなはち愈えぬ」とあって、もはや人間・釈迦をはるかに超えたはたらきをしています。小乗の『涅槃経』の釈迦は正しく人間・釈迦ですが(「自灯明、法灯明」という遺言を残して亡くなる釈迦はこちらです)、大乗の『涅槃経』においては超人的な存在に変貌しています(因みに『無量寿経』では超越的な弥陀如来と人間としての釈迦如来の二尊がそれぞれのはたらきをします)。

さて、この場面でとりわけ印象に残るのが、「釈迦如来は自分のようなものに会ってくださるだろうか」と心配する阿闍世に、耆婆が「(釈迦如来は)もろもろの衆生において平等ならざるにあらざれども、しかるに罪者において心すなはちひとへに重し。放逸のものにおいて仏すなはち慈念したまふ」と答える箇所です。それを言うために七子を持つ親を例に出し、「この七子のなかに一子病に遇へば、父母の心平等ならざるにあらざれども、しかるに病子において心すなはちひとへに重きがごとし」と述べていますのは非常に説得力があります。ただしかし、この例の病子と罪者とでは根本的な違いがあることを忘れるわけにはいきません。

病子は客観的に存在しますが、ここで言う罪者は主観的にしか存在しないということです。この罪者は法律上の犯罪者のことではありません、みずからを罪人であると気づいた人のことです。客観的には大罪人であっても、本人が自分を罪人と気づいていなければ罪人ではありません。逆に、客観的にはどんなに善人であっても、本人が自らを罪人と気づけば、その人は罪人です。「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」というときの悪人も同じで、「悪人正機」というのは、自分を悪人だという気づきがあってはじめて本願に遇うことができるということです。「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」という気づき(機の深信)と、「かの願力に乗じて、さだめて往生を得」という気づき(法の深信)はひとつです。


タグ:親鸞を読む
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