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2013年12月25日(水) [はじめての『教行信証』(その150)]

 大津波で「生き残ってしまった」人(何という言い方でしょう)に、「生きていてほしい」と願ってくれるのは、例えば亡くなったわが子かもしれません。その子の顔がまぶたに浮かんで、その子から声が聞こえるのかもしれません。でもその願いは、はるか遠くから届けられたように感じるのではないでしょうか。その子を通り越して、はるかな「いのちのふるさと」から願われているように思えるのではないか。
 「これから」の願いについては、どんなにこころの底から真剣に願うとしても、だからといって願いがかなえられる保証はどこにもありません。「かなうと信じるからこそかなうのだ」と言われるのにあえて反対しようとは思いません。絶対できると信じて打ち込まなければ、何ごとも大成しないのはその通りでしょう。でも絶対できると信じたことも、できないことがあるのは悲しい現実です。
 ところが「もうすでに」の願い(それにしても何とも妙ちくりんな言い回しと言わなければなりません)は、自分から願うのではなく、はるかな「いのちのふるさと」から願われているのですから、「もうすでに」かなっているのです。願われていることに気づいたそのとき、願いは「もうすでに」成就しているのです。
 「どんなに往生(『あんじん』です)を必死の思いで願おうと、それがかなえられる保証なんてないじゃないか」と疑問をぶつけてくる人に対して、いまこそはっきり答えることができます、「かなわなくてもかまわない」と。この願いはわが心からではなく、「いのちのふるさと」からきたものですから、そのことに気づいたそのとき「もうすでに」成就していると。

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