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いづれのときにか娑婆をいでん [はじめての『高僧和讃』(その167)]

(17)いづれのときにか娑婆をいでん

 次の和讃です。

 「弘誓(ぐぜい)のちからをかぶらずば いづれのときにか娑婆をいでん 仏恩ふかくおもひつつ つねに弥陀を念ずべし」(第86首)。
 「本願力によらずして、いずれのときに娑婆を出る。仏の御恩わすれずに、南無阿弥陀仏となうべし」。

 もとは『般舟讃』の次の一節です、「あるいはいはく、今より仏果に至るまで、長劫に仏を讃じて慈恩を報ぜん、と。弥陀の弘誓の力を蒙らずは、いづれの時いづれの劫にか娑婆を出でん」。どうして凡夫は苦しみの世界である娑婆にしがみつこうとするのかと言えば、苦しみを楽しみと勘違いしているからとしか考えられないと述べてきました。この勘違いがある以上「曠劫以来もいたづらに むなしくこそはすぎにけれ」となり、「いづれのときにか娑婆をいでん」とならざるをえません。
 先ほど、株価の上がり下がりに一喜一憂していた自分を「さもしい」と感じたと言いましたが、この感覚にもう少しこだわりたいと思います。もうひとつ、自分を「さもしい」と感じたことがあったのを思い出したのです。高校教師時代のことです。三河のある受験校にいたときですが、3年生ともなりますと年に何回も業者の模擬テストを受けさせます。対外試合で実力をつけさせるとともに、受験大学を選ぶときの目安にするという意味もあります。さあこのテストは生徒だけではなく、われら教師にとっても一大関心事なのです。
 業者から結果報告が届きますと、真っ先に目が行くのが自校と他校(ライバル校)との対照表です。ぼくはそのとき世界史を担当していましたが、自校の世界史の平均偏差値と他校のそれとを見比べるのです。自校が上回っているとほくそ笑み、下回っていますとガッカリします。自校の生徒の成績が上がったと喜び、下がったと悲しむのですが、それは実は、自分の力がどのように評価されたかということに他ならず、それが上がった下がったと目の色が変わるのです。
 ふと、そんな自分を「さもしいなあ」と感じるときがあります。

タグ:親鸞を読む
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