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はじめての『教行信証』(その133) ブログトップ

2013年12月8日(日) [はじめての『教行信証』(その133)]

 すぐ分かりますのは、「記憶する」ことも「予期する」ことも「何かをする」ことに含まれるということです。「きょう」何かをしている中には、「きのう」のことを思いだしていることもあり、「あした」のことを思い浮かべていることもあります。
 身・口・意の三業で言いますと、こころで思う意業とは、要するにこれまでのことを思い起こしたり、これからことを予期したりすることです。
 ここから明らかなように、「きのう」も「あした」も、「きょう」の中にあります。「きのうはこんなことがあったな」と「きょう」思い起こし、「あしたはこうなるだろう」と「きょう」予期しているのですから。
 「きのう」も「あした」も「きょう」の中にあり、それ以外のどこにもありません。それを逆に言いますと、「きのう」を思い起こすこともなく「あした」を予期することもないならば、「きょう」もまた極度にやせ細ったものになります。
 神谷美恵子の古典的名著『生きがいについて』にこんな一節があります。「過去を思うことはたえがたい苦痛であり、未来は考えるさえおそろしい、という人間には、現在という時間にも現実性が感じられなくなる。次は結核で病んでいる或る娘のことばである。『私にはもう時間というものがなくなってしまったような気がする…』」。
 本題に戻ります。正定聚と仏の関係でした。正定聚は現生(きょう)で、仏は来生(あした)という構図をどう理解したらいいか。
 先ほど検討しましたように、「あした」があることは疑いないとしても、「あした」に行くことはできません。どこまで行っても「きょう」。「あした」は「きょう」の中にしかないのです。同様にこう言うことができるでしょう、来生があるだろうと思っても、来生に行くことはできない、来生は今生の中にしかないと。

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