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わが内なる本願 [「親鸞とともに」その106]

(9)わが内なる本願

カントは「実践理性の命令」に従うことがほんとうの自由であると言います。何の命令であれ、命令に従うのは不自由であるように思えますが、「実践理性の命令」に従うことこそ真の自由であると言うのです。といいますのも、実践理性とは真の自己に他なりませんから、その命令に従うのは自由であるということです。欲望のままに振る舞うのは自由であるように見えて、実は欲望に振り回されているのであり、欲望を抑える理性の命令に従うのは不自由であるように見えて、実はそれは真の自己に従うことであり、これこそ真の自由(自律)であるというのです。

さて「南無阿弥陀仏」すなわち「わたしは阿弥陀仏の意思に従います」という表明ですが、もし「阿弥陀仏の意思」がわれらとは無縁の絶対的意思であるとしますと、これは紛れもなく他律と言わなければなりません。「わたしの意思」を放棄して、「阿弥陀仏の意思」という絶対命令に服するというのですから。しかし「阿弥陀仏の意思」がわれらのほんとうの意思であるとしたらどうでしょう。それは「わたしのほんとうの意思」に従うことに他なりませんから、カントの言うように、まさしく自律ということになります。これこそ真の自由です。

ところで「阿弥陀仏の意思」とは本願のことです。「若不生者不取正覚(もし生れずば、正覚を取らじ)」という意思です。そして信心を得るとは、この本願がわれらの内にあることに気づくことです。本願が名号となってわれらの内にやって来て信心となるのですから、というより、本願がもともとわが内にあることに気づくのが信心ですから、本願と信心は別ものではありません。本願があるということはわが内に信心があるということであり、信心があるということはわが内に本願があるということです。本願があるから信心があるのは当然ですが、逆に、信心があるからこそ本願があるのであり、信心のないところに本願はありません。

信心を得るまでは、わが内に本願があるなどとは思いもよらなかったのですが、いまや本願が「わたしのほんとうの意思」として存在していることに気づいています。としますと、「南無阿弥陀仏」すなわち「わたしは阿弥陀仏の意思に従います」とは、わたしは自由ですという表明に他なりません。

(第10回 自由ということ 完)


タグ:親鸞を読む
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