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「おほせさふらひき」 [正信偈と現代(その189)]

(2)「おほせさふらひき」

 親鸞にとって、法然以外の高僧たちは、文字で読むことを通して、そこから聞こえてくる声を聞くしかありませんが、法然だけは親しくその生の声を聞くことができました。そもそも法然は文字で教えを伝えるよりも、直に声を聞かせる人でした(法然の著作としては『選択本願念仏集』と『一枚起請文』ぐらいで、あとは『手紙』や『語録』が多く残されています)。たった6年間でしたが、親鸞は東山吉水で法然の教えを直に受け、そのときに聞いたいくつかのことばを生涯大事にし、それを生きる糧にしていたことがいろいろなところからうかがえます。
 先に『歎異抄』第2章のことば「よきひとのおほせをかぶりて云々」を上げましたが、第3章と第10章には親鸞が法然から聞いたことばが紹介されています。第3章は有名な「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」、第10章は「念仏には無義をもて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆへに」です。「善人なをもて」はこれまで親鸞のことばとされてきましたが、もとは法然のことばであることが明らかになりました。その根拠の一つが第1章から第10章までの「故親鸞聖人の御物語」のなかで、第3章と第10章だけが「おほせさふらひき」と締めくくられ、その他は「云々」となっているということです。
 これまでは、この「おほせさふらひき」は、親鸞聖人がそう言われた(のを唯円が聞いた)というように受け取られてきたのですが、そうではなく、法然上人がそのように言われたのを親鸞がたしかに聞き取ったという意味であることがはっきりしてきたのです。第3章の「悪人正機」につきましては、法然の伝記(『法然上人絵伝』とは別で、弟子の源智が著したもの)に法然が「善人なおもって往生す、況んや悪人をや」と言ったことが記録されていますし、第10章の「無義をもて義とす」については、親鸞の手紙に「義なきを義とす」が法然上人のつねの仰せであったことが何箇所か出てきます。

タグ:親鸞を読む
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