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6月19日(日) [矛盾について(その320)]

 「自分は現に罪深く迷える凡夫で、はるかなる過去よりずっと苦海に沈んで生死を繰り返し、そこから離れることなど思いもよらない身である」を約めますと「この身で救われるはずがない」となり、これは「このまま生きていていいわけがない」という呻きに他なりません。
 そして「阿弥陀仏の四十八願はこのような哀れな凡夫を疑いなく確実に摂め取ってくださるためのものですから、その願の力によって間違いなく往生することができる」を約めますと「この身のままで救われる」となり、これは「このまま生きていていい」という喜びです。
 さて、善導の「二種深信」の考えで興味深いのは、「機の深信」が「法の深信」と対になっていることです。「機の深信」は「法の深信」をまってはじめて完結するということ、ここに善導の浄土思想の本質があります。深く思いを潜めなければならないところでしょう。
 浄土の教えとは、この世界には阿弥陀仏の願いが満ち満ちていて、その願いの力でわれらはみんな救われるというものですから、考えようによっては「法の深信」だけで事足りるように思えます。「阿弥陀仏の四十八願の力によりわれらはみな救われる、何と有り難い」、これだけでいいように思えます。どうしてそこに「この身で救われるはずがない」という呻きが出てくるのか。
 そもそもこの二つは真っ向からぶつかり合う内容です、「このままで救われるはずがない」という悲しみと「このままで救われる」という喜び。この矛盾する二つが揃ってはじめて完結するというのはどういうことか。

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