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器と衆生 [「『証巻』を読む」その75]

(2)器と衆生

ここでは器は仏国土、衆生は仏・菩薩を意味しますが、それをより一般化して器を世界、衆生はそこに住む人間と理解して考えましょう。

曇鸞は器と衆生の関係を食器とそこに盛られる食べ物の関係に譬えて、不浄な食器に清浄な食べ物を盛れば食べ物も不浄となり、逆に、不浄な食べ物を清浄な食器に盛ると食器も不浄になると言います。分かりやすく印象的な譬えですが、それで言いますと、不浄な世界に清浄な人間が住めば人間も不浄となり、逆に、不浄な人間が清浄な世界に住めば世界も不浄になることになります。人間と世界は一体不離であって、「かならず二つともに潔くして、いまし浄と称することを得しむ」ということです。

さてこの「人間と世界は一体で切り離すことができない」という考え方のもつポテンシャルに思いを潜めたいと思います。近代の主要な潮流は人間と世界を切り離す方向に動いてきたと言えます。その嚆矢とも言うべきものがデカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」で、彼は精神としての「人間(われ)」と、物体としての「世界」(この中には人間の身体も含まれます)を明確に分けました。そして両者の関係は「人間(われ)」が「世界」を支配するというものです。「こころ(精神)」と「もの(物体)」があり、前者が後者をコントロールしているという二元的な構図です。この構図が近代から現代へと受け継がれ、われらの中に定着しています。

それと対照的なのが仏教の「あらゆるものは縦横無尽につながりあっている」という縁起の思想です。「こころ(人間)」あるに縁って「もの(世界)」があり、同時に、「もの(世界)」があるに縁って「こころ(人間)」があり、両者はひとつにつながりあっているという見方です。「こころ」のありようによって「もの」のありようが変化しますが、逆に、「もの」のありようにより「こころ」のありようが影響を受けます。ですから「こころ」が不浄であれば「もの」もまた不浄となり、また、「もの」が不浄であれば「こころ」もまた不浄になります。


タグ:親鸞を読む
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