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光と闇 [『教行信証』「信巻」を読む(その118)]

(10)光と闇

光が差し込んでも、闇が消えるのではなく、むしろまったき闇であることが明らかになるということ、この微妙な関係についてもう少し考えを廻らしておきたいと思います。光とは仏の智慧であり、闇とはわれらの無明ですから、仏の智慧を賜っても、われらの無明が消えるのではなく、むしろまったき無明であることが明らかになるということです。光と闇、智慧と無明は真反対ですから、光(智慧)がやってきているのに、闇(無明)が消えることなく、むしろまったき闇になるというのはどうしようもない矛盾と言わなければなりません。これをどのように呑みこめばいいのでしょう。

まず無明という闇は「気づき」としてしか存在しないということから。すなわち無明という闇はどこかにあるのではなく、それに気づいてはじめて姿をあらわすということです。それに気づいていない人には影も形もないということです。われらは生まれてこの方ずっと「わたし」というレンズ越しに世界を見ていて、そこに無明という闇(我執という闇)が現出しているのですが、しかしそのことに気づくことはありません。したがって無明という闇などどこにも存在しません。それは生まれてこの方ずっと光の差さない深海で生きている魚が、そこは光の差さない闇の世界であることに気づかず、したがってその魚にとって闇の世界などどこにもないのと同じことです。

そこが闇の世界であることに気づくのは、あるとき光に遇うという未曾有の経験をすることによってであり、そのときはじめて闇の世界が姿をあらわします。そのように、ここは無明の闇であると気づくのは、あるとき仏の智慧に遇うという不可思議な経験をすることによってであり、そのときはじめて無明の闇が姿をあらわします。そしてわれらは生まれてこの方ずっと「わたし」というレンズ越しに世界を見ていることを覚るのです。このように無明の闇は「気づき」としてあり、そしてその「気づき」は仏の智慧の「気づき」によってもたらされることが了解できます。

智慧の光がやってきたから、無明の闇が消えるのではありません。智慧の光がやってきたからこそ、無明の闇があらわれるのです。


タグ:親鸞を読む
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