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『浄土論』 [「親鸞とともに」その38]

(6)『浄土論』

『浄土論』という書物は、われらがどのようにすれば安楽浄土に生まれることができるかを説いていますから、われら(『浄土論』の言葉では菩薩)を主語として説かれています。ところが親鸞は主語をわれらから法蔵菩薩へと転換してこの書物を読むのです。たとえば「菩薩は四種の門(礼拝・讃嘆・作願・観察の四つの門)に入りて自利の行成就す、知るべし。菩薩は出の第五門(第五の回向門)をもつて利益他の行成就す、知るべし。菩薩はかくのごとく五門の行を修して自利利他して速やかに阿耨多羅三藐三菩提(無上のさとり)を成就することを得るゆゑなり」という文がありますが、親鸞は「自利の行成就す」、「利益他の行成就す」をいずれも「成就したまへり」と読み、「成就することを得る」を「得たまへり」と読んで、主語を法蔵菩薩へと転換するのです。

親鸞がこのような読み替えをすることができた背景に曇鸞の『論註』があります。曇鸞はこの文を注釈する中で、こう問います、「どうして天親は〈菩薩は速やかにこの上ない悟りを成就することができる〉と言うのだろうか」と。そしてみずからこう答えます、「天親は〈菩薩は五門の行を修めて自利利他を行じるから〉と言っているが、しかし実を言えば(原文では、(まこと)にその本を求むれば)阿弥陀如来の本願力によるのである」と。すなわち曇鸞は、われらが自利利他の行を修めることで往生・成仏できるように見えるが(そして天親はそう説いているが)、実はそれは如来の本願力によるのだと言うのです。これが先の「一心」と関係してきます。

如来の心がわれらの心にやってきて、この二つが一つになることが「一心」ですが、そのときわれらの心は如来の心(本願)に他ならず、したがって、われらの心がなしているように見えることは、その実、如来の心がなしているのだということです。そこからしますと、天親はわれらが自利利他の行をなすように説いていますが、それは実は如来の行であると言わなければならず、かくして主語がわれらから法蔵菩薩へと読み替えられることになるのです。われらが礼拝・讃嘆・作願・観察・回向の行をなしているかに見えて、実はわれらの内なる法蔵菩薩がそれをなしているということです。


タグ:親鸞を読む
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