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チェシャ猫が笑う [『ふりむけば他力』(その96)]

(5)チェシャ猫が笑う

 龍樹はこう言います、「去るはたらきなるものが、すなわち去る主体であるというのは正しくない。また、去る主体が、去るはたらきからも異なっているというのも正しくない」と。「去る主体」(去る人)と「去るはたらき」(去ること)が同一でないのはもちろんだが(不一)、しかし別でもない(不異)ということです。この両者はひとつではないが、しかしつながりあっていて切り離せないということです。「去る人」がいて「去ること」があり、「去ること」があって「去る人」がいるのであり、この二つを切り離すことはできません。
 「主体」と「はたらき」が同じであるというのはどう考えてもおかしいでしょう。しかしだからと言って、「主体」と「はたらき」がまったく別であるとしますと、これまたおかしなことになります。たとえば「はたらき」だけがあって「主体」がないというおかしな事態があることになります。「不思議の国のアリス」ではチェシャ猫の笑いだけがあって当のチェシャ猫がいないという不可解なことがおこります。あるいはまた「主体」だけがあって「はたらき」がないというおかしなことがおこるかもしれません。チェシャ猫だけがいて、何のはたらきもない。笑いがないのはもちろん、食べることもなく、眠ることもなく、息をすることもない。
 さてしかしわれらは「主体」と「はたらき」はまったく別であるとごく当たり前に考えています。「チェシャ猫」と「笑う」は別であると。どうしてかと言いますと、われらのことばがそういう構造をしているからです。「チェシャ猫が笑う」と言うとき、まず「チェシャ猫」(主語)がいます。そしてその猫が「笑う」(述語)。その猫はいま笑っていますが、次の瞬間には怒りだすかもしれませんし、いま寝そべっていますが、次にはゆっくり歩きだすというように、同じ猫がさまざまなはたらきをします。とするならば、「チェシャ猫」と「笑う」はまったく別でしょう。一般に「主体」と「はたらき」は切り離さなければなりません。これがわれらの常識です。
 この問題は第8章「行為と行為主体との考察」で主題となります。この章の核心は「行為によって行為主体があり、またその行為主体によって行為がはたらく」(第12偈)という一文にあります。行為主体と行為は切り離すことができないということです。もし切り離してしまいますと、行為主体だけがあって行為がないというおかしなこと、あるいは行為だけがあって行為主体がないというおかしなことが生じてきます。行為主体と行為はひとつにつながっており、行為主体のあるところ行為があり、行為のあるところ行為主体があるという「縁起の関係」にあるのです。

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