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むこうからつかみ取られる [『ふりむけば他力』(その20)]

(4)むこうからつかみ取られる

 「気づく」ことは「わたし」に起りますが、「わたし」が「気づく」のではなく、「気づく」ことが起こったあとで「わたし」が「ああ、そうなのか」と思うのです。ここで頭に浮ぶのがまたもやあの中動態です。中動態は能動であるとともに受動ということでしたが、「気づく」ことも、「気づく」のが「わたし」であるという意味では能動に違いありませんが、でも「わたし」が「気づく」のではなく、むしろ「気づかされる」という意味において受動です。このように、「知る」は能動態であるのに対して、「気づく」は中動態と言えるのではないでしょうか。
 第1章で、自力は「こちらから」つかみ取ることであるのに対して、他力は「むこうから」つかみ取られることであると述べましたが、「知る」と「気づく」の対についても、それをそっくりそのまま当てはめることができます。「知る」は「こちらから」つかみ取ることであるのに対して、「気づく」は「むこうから」つかみ取られることであると。「知る」と同じ意味で「把握する」ともいいますが、これはまさに「つかみ取る」ことです。ドイツ語では「理解する」を“begreifen”と言いますが、これまたまさに「つかみ取る」という意味です。それに対して「気づく」とは、あるとき「むこうから」何か見えない力でむんずと「つかみ取られる」ことです。
 さてそのことと、「気づく」は主観的であるのに対して「知る」は客観的であることとはどのように関わるのでしょう。
 「気づく」とは「むこうから」つかみ取られることですから、これはもう主観的でしかありません。「あることに気づいた」という言明は、誰かがあることに「つかみ取られた」と言っているのですから、その人だけのことであるのは明らかです。問題は「知る」ことはどうして客観的であるかということです。「あることを知った」という言明も、誰かがあることを「つかみ取った」と言っているのですから、とりあえずはその人に関わることです。しかしその場合は「以上終わり」として済ますわけにはいきません。そのことをすでに知っている人はいいとして、知らない人から「どうしてそう言えるのか」という声が出てくることになるからです。

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