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歓喜地 [はじめての『高僧和讃』(その7)]

(7)歓喜地

 第3首のもとになっているのは『十住毘婆沙論』です。この書物は『華厳経』の「十地品」(独立した経典としては『十地経』)を注釈したもので、「十住」は「十地」と同じであり、「毘婆沙」とは「注釈」という意味です。十地と言いますのは、菩薩の修行の位階のうち、第41位から第50位(因みに、第51位が等正覚、第52位が正覚、つまり仏の境地です)までを指し、その初地である第41位を歓喜地と呼ぶのです。
 「問ていはく、初地なんがゆへぞなづけて歓喜とするや。こたへていはく、初果の究竟して(くきょうして、ついには)涅槃にいたることをうるがごとし。菩薩この地をうれば心つねに歓喜おほし」(『十住毘婆沙論』「入初地品」)。初地にいたれば、もうどれほど怠けても退転することなく、かならず涅槃に入ることができるから喜びが溢れるのだというのです。親鸞は「歓喜地」に左訓してこう言っています、「歓喜地は正定聚の位なり。身によろこぶを歓といふ、こころによろこぶを喜といふ。得べきものを得てんずとおもひてよろこぶを歓喜といふ」と。
 「大乗無上の法」とは、第2首からの流れで言いますと、「一切は有でもなく、無でもない、空である」ということでしょうが、その境地に入ることができますと、もう退転することなく(不退転)必ず涅槃をえることができる(この境地が正定聚です)と「身によろこび」「こころによろこぶ」ことができるというわけです。さてしかし、どうしてそこから「ひとへに念仏すすめたり」となるのでしょうか。
 『十住毘婆沙論』には、先の引用の少し後に、初地に至るとどうして歓喜が多いのかについてこうあります、「つねに諸仏および諸仏の大法を念ずれば、必定して希有の行なり。このゆへに歓喜おほし。…諸仏を念ずといふは、燃燈等の過去の諸仏、阿弥陀等の現在の諸仏、弥勒等の将来の諸仏を念ずるなり。つねにかくのごときの諸仏世尊を念ずれば、現にまへにましますがごとし。…このゆへに歓喜おほし」と。

タグ:親鸞を読む
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