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世をいとふしるし [はじめての『尊号真像銘文』(その159)]

(9)世をいとふしるし

 また本願ぼこりについても同様のことが言えます。悪をなすことは往生にとって何の妨げにもならず、むしろ悪人こそ救われるのだから、もう悪をおそれることはないと考え、そのようにふるまうことを本願ぼこりとして親鸞は誡めていました。このような言動がおこってくるのも、まだ本願名号に遇うことができていないからであって、もう本願名号にゲットされている人には縁のないことです。
 そのことを親鸞は関東への手紙で次のように記しています。「われ往生すべければとて、すまじきことをもし、おもふまじきことをもおもひ、いふまじきことをもいひなどすることはあるべくもさふらはず」、「めでたき仏の御ちかひのあればとて、わざとすまじきことどもをもし、おもうまじきことどもをもおもひなどせんは、よくよくこの世のいとはしからず、身のわろきことをもおもひしらぬにてさふらへば、念仏にこころざしもなく、仏の御ちかひにもこころざしのおはしまさぬにてさふらふ」と(『末燈鈔』第19通)。
 そして本願名号に遇うことができた人について、「しるし」という印象的なことばを遣ってこんなふうに述べています。
 「仏の御名をもきき、念仏をもまふして、ひさしくなりておはしまさんひとびとは、この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめす≪しるし≫もさふらふべし」、「としごろ念仏して往生ねがふ≪しるし≫には、もとあしかりしわがこころをもおもひかへして、とも同朋にもねんごろにこころのおはしましあはばこそ、世をいとふ≪しるし≫にてさふらはめ」と(同、第20通)。本願名号に遇うことができると、わが身のあしきことをつくづく思い知って、それをあらためようとするはずであり、それが本願名号にゲットされたものの≪しるし≫だというのです。
 あるとき母親に芋を所望され、源左は鍬を担いで芋ほりに出かけますが、先客があってせっせと芋を掘っている。芋泥棒です。それを見た源左はくるっと向きを変え、手ぶらで家に帰ってきます。母から「あれ、芋は」と尋ねられた源左は「今日はおら家(げ)の掘らん番だっていのう」と答えたという逸話が残っています。これが源左についた信心の≪しるし≫でしょう。

タグ:親鸞を読む
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