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偈文1 [「『正信偈』ふたたび」その41]

第5回 難のなかの難、これに過ぎたるはなし

(1)  偈文1

さて次に本願の信をえた人は勝れた智慧の人であり、また白い蓮の華であると讃えられます。

一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願

仏言広大勝解者 是人名分陀利華

一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、

仏、広大勝解のひととのたまへり。このひとを分陀利華(プンダリーカ、白蓮華)と名づく。

善人であれ悪人であれ、あらゆる凡夫が弥陀の本願を聞き信じることができれば、

釈迦如来はその人を“すぐれた智慧の人”と呼び、また“白い蓮の華”と言われます。

この四句のもとになっているのは『如来会』と『観経』で、信を得た人は「広大勝解」の人であるという言い回しは『如来会』に、「分陀利華」であるというのは『観経』に出てきます。

さてまず「一切善悪の凡夫人」という第一句について。少し前のところに「凡聖・逆謗斉しく回入すれば、衆水海に入りて一味なるがごとし」という偈文がありましたが、これも同じ趣旨で、善人だ悪人だと言ってもみな凡夫として一味であるということです。このことばから頭に浮ぶのは、聖徳太子『憲法十七条』の「ともにこれ凡夫(ただひと)ならくのみ」という言い回しです。その第十条にこうあります、「人みな心あり。心おのおの執るところあり。かれ是(よ)んずればすなはちわれ非(あし)んず。われ是んずればすなはちかれ非んず。われかならず聖(ひじり)なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず」と。そして「ともにこれ凡夫ならくのみ」とつづくのです。

『憲法十七条』は、われらが憲法ということばからイメージするものとは違い、政治を執る立場にあるものの心構えについて書かれた文書ですが、そのなかにも聖徳太子の仏教に対する深い理解が滲み出ていると言えます。親鸞が聖徳太子を日本に仏教を根づかせてくれた大恩人として深く敬愛していたことはさまざまなところから窺えますが(たとえば、聖徳太子を讃嘆する膨大な数の和讃を残しています)、親鸞はこの『憲法十七条』の文からも太子を仏弟子として崇めていたのであろうと思われます。


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死後の生まれ変わり [「『正信偈』ふたたび」その40]

(10)死後の生まれ変わり

輪廻の思想が成り立つためには、不滅の「アートマン(自我)」を認めることが前提条件となります。肉体は死とともに滅しますが、滅することがないのが「アートマン」で、これが次の世で別の姿を取る、こう発想するのが輪廻の思想です。さて仏教はこの「アートマン」を否定します。それが仏教の基本中の基本である「無我」ということですが、そうしますとおのずから輪廻の思想も否定されることになります。われらはありもしない「アートマン」を存在するかの如く思い込み、そこから死後の生まれ変わりを妄想することになるのです。このように「無我」をベースとする限り、輪廻は成り立ちようもないのですが、「五悪趣を超える」と言われますと、どうしても五悪趣そのものは存在すると思ってしまうのです。

「五悪趣を超える」とは、現に存在する五悪趣の世界を超えるということではなく、五悪趣の世界という妄想を超えるということです。

もし五悪趣の世界が現に存在するとしますと、それを超えるということは、その五悪趣の世界とは別の世界に行くことになります。こちらに五悪趣の世界、あちらにそれを超えた特別な世界(極楽世界?)があって、こちらからあちらに行くこと、これが五悪趣を超えるということになります。さてしかし、そのように考えるとき、そこには密かに「アートマン」が持ち込まれています。五悪趣のなかをグルグル経廻るのが輪廻ですが、その輪廻の世界を超えることもまたもう一つ高次の輪廻と言わなければなりません。どちらも不滅の「アートマン」がこちらからあちらに行くのですから。

仏教では「生死を超える」とか「迷いの世界を超える」という言い方がしばしばされますが、それもまた「五悪趣を超える」と同じで、こちらの生死の世界からあちらの涅槃の世界に行くことではありません。親鸞の和讃に「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」(『高僧和讃』「善導讃」)とありますが、この「生死をへだてける」とは、生死の世界から別の世界に行くことではありません。そうではなく、この生死の世界がそのままで涅槃の世界であることに目覚めることです。これが「生死即涅槃」であり、そして「五悪趣を超截す」ということです。

(第4回 完)


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五悪趣を超える [「『正信偈』ふたたび」その39]

(9)五悪趣を超える

親鸞は「即横超截五悪趣」から「横超」を一つの熟語として取り出し、これを浄土真宗の本質を表す特別なことば、いわばキャッチコピーとしてさまざまなところでつかいます。先ほどの『尊号真像銘文』の注釈文に「他力と申すなり」とあったのにつづき、「これを横超といふなり。横は竪(しゅ)に対することばなり、超は迂(う、回り道)に対することばなり。竪はたたさま、迂はめぐるとなり。竪と迂とは自力聖道のこころなり、横超はすなはち他力真宗の本意なり」とあります。そして『教行信証』「信巻」ではこう言います、「横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。…大願成就の報土には品位階次をいはず、一念須臾(しゅゆ、一瞬)のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す、ゆゑに横超といふなり」と。このように浄土真宗(宗派の名ではありません、浄土の真なる教えという意味です、念のため)は「横超」にその本質があると繰り返し述べています。

では何を「よこさまに超える」のかと言いますと、もちろん五悪趣です。さてしかし五悪趣をよこさまに超える、つまり本願力により「品位階次をいはず、一念須臾のあひだに、すみやかに疾く」超えるとはどういうことでしょう。ここで考えておきたいのが輪廻についてです。輪廻とは、三界(欲界・色界・無色界)・六道(天・人・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄)を生まれ変わり死に変わりしてグルグルと経廻ることを言いますから、ここで「五悪趣(六道から阿修羅を除いたもの)を超える」と言われるのは、この輪廻の世界を超絶するという意味ですが、さて輪廻の世界というのは実際に存在するのでしょうか。こんなふうに言いますと怪訝な顔をされるかもしれません、輪廻の世界を超えるというのだから、その世界があるに決まっているではないのかと。

輪廻はもともとバラモン教の思想で、仏教はそれを受け入れたと言われますが、そしてそれはその通りでしょうが、さてそれをどのように受け入れたのかが問題です。結論を先に言ってしまいますと、否定的に受け入れたのです。すなわちわれらは輪廻の世界に生きていると思っていますが(そしてそれに脅かされていますが)、そんな世界は実際には存在しないということです。これが「五悪趣を超える」ということです。


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よこさまに [「『正信偈』ふたたび」その38]

(8)よこさまに

次に第二句、「すなはちよこさまに五悪趣を超截す」です。「すなはち」は「そのとき直ちに」という意味であることは言うまでもありません(親鸞のことばでは「ときをへず日をへだてずして」)。問題は次の「よこさま(横)に」で、上に見ましたように、これは『大経』に出てくることばですが、親鸞はこれに特別な意味を読み込みます。『尊号真像銘文』で件の『大経』の文を注釈して次のように述べています、「『横』はよこさまといふ、よこさまといふは如来の願力を信ずるゆゑに行者のはからひにあらず、五悪趣を自然にたちすて四生をはなるるを横といふ、他力と申すなり」と。

「竪(たたさま)」が自力であるのに対して「横(よこさま)」は他力を意味すると言うのです。

さてしかし「よこさま」の普通の意味は、『大経』に多く出てくる例を見ても分かりますように、「不当に」とか「不正に」ということです。たとえば「五悪段」にはこうあります、「横(よこさま)に威勢を行じて人を侵易し(侵しあなどる)」と。また『教行信証』でも『涅槃経』からの引用文に「父の王辜(つみ)なきに、横(よこさま)に逆害を加す」という表現が何度も出てきます(父王を殺して王位を簒奪した阿闍世の懺悔のことばです)。辞書を見ますと、横のつく熟語は「横柄」、「横暴」、「横着」など「よこしま」の意味ばかりです。このように「たたさま」が「順序次第にしたがうこと」で、それが「常識にあうこと」であるのに対して、「よこさま」は「順序次第を経ないこと」であり、「常識に反すること」を意味すると言えます。

ここから了解できますのは、「よこさま」すなわち他力というのは世の常識に反することであるということで、常識的なのは何ごとも自力でコツコツと「たたさま」になすことであり、それを無視するのが他力であるということになります。他力の非常識をさらに際立たせるのが、よこさまに「超える」ということで、常識的には「順序次第にしたがって」一歩一歩前進していくものですが、他力はそんな位階秩序などは無視して、一足飛びに「超える」のです。


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「見る」と「聞く」 [「『正信偈』ふたたび」その37]

(7)「見る」と「聞く」

さて第一句ですが、「見て敬い」の「見る」は、この場合「聞く」ということです。「聞見」ということばがありますが、これは「眼見」に対し、聞くことによりものごとを了解するという意味で、いまの「見る」はこの「聞見」です。

そこで「かたち((しき))」を「見る」ことと「こえ」を「聞く」ことについて少し考えておきましょう。われらは「こえ」を「聞く」ことより、「かたち」を「見る」ことに価値を置くものです。「百聞は一見に如かず」とも言われ、何度聞いてもよく分からないが、図で示されるとたちどころに分かることがよくあります。そこから、どうしても「見る」ことが「聞く」ことの上に置かれます。この間のテレビ番組で天気予報のことをやっていまし、画面に示されたお天気マークと予報士のことばが食い違っている場合(画面は「晴」、予報士のことばは「雨」であるような時)、人はお天気マークを見るだけで判断し、予報士のことばは聞いていない(聞こえていない)そうです。

しかし世の中でもっとも大切なものは、その「かたち」を「見る」ことはできず、「こえ」として「聞こえる」だけです。それは「ほとけのいのち」です。

繰り返し述べましたように、「ほとけのいのち」は「体」(実体)ではなく「用」(ゆう、はたらき)です。「ほとけのいのち」が「体」でしたら、それは「わが身」とは別のどこかに「かたち」として存在するはずですから、それを「見る」ことができるでしょう。しかし「ほとけのいのち」は「用」として「わが身」の上にはたらいているのですから、それを「見る」ことはかないません。ではそれが「わが身」の上にはたらいていることがとどうして分かるのかといいますと、それは「こえ」として「聞こえてくる」からです。「ほとけのいのち」は「こえ」となって「わが身」の上にはたらいているのです。この「こえ」は普通の「声」ではありません。普通の「声」でしたら、それを音波として可視化することができるでしょうが、この「こえ」はどのような意味でも「見る」ことはできません。

さて「ほとけのいのち」が「こえ」となって「わが身」の上にはたらいていることが感じられたとき、われらに「大慶喜」が生まれます。これが「信をえて、みてうやまひ、おほきに慶喜すれば」ということです。


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偈文2 [「『正信偈』ふたたび」その36]

(6)偈文2

信が開けたときの風光が詠われてきましたが、さらにこう言われます。

獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣

信をえて、みてうやまひ、おほきに慶喜すれば、すなはちよこさまに五悪趣(地獄・餓鬼・畜生・人・天)を超截す

弥陀のよびごえが聞こえて心に喜び満ちるとき、もうすでに生死の迷いを超えている

二句とも『大経』にもとの文があり、一句目のもとは「往覲偈(おうごんげ)」の「法を聞きてよく忘れず、見て敬い得て大きに慶はば、すなはちわが善き親友(しんぬ)なり」、二句目はその少し後の「かならず超絶して去(す)つることを得て安養国に往生して、横(よこさま)に五悪趣を截(き)り、悪趣自然に閉じ、道に昇るに窮極(ぐうごく)なからん」で、前の文の「見て敬い得て大きに慶はば」と、後の文の「横に五悪趣を截り」をつないでいます。

この二句は、親鸞自筆の『教行信証』「坂東本」を見ますと(写真版で見ることができ、親鸞が執筆したときの息遣いが伝わってくるようです)、推敲の跡が生々しく残っています。

第一句のもとは「見敬得大慶喜人(見て敬い、得て大きに慶喜する人)」で、それは墨で塗りつぶされており、その左側にまず「獲信大慶」と書かれ、さらに「大慶」が塗りつぶされて、その上から「見敬」と書き直され、その下に「大慶人」とつづいています。ですから最終的には、右側に墨で塗りつぶした跡があり、その左側に「獲信見敬大慶人」と書かれています。現行の「正信偈」(蓮如の「文明版」がもとになっています)は「獲信見敬大慶喜」で、最後の「人」が「喜」に変わっていますが、それは親鸞自筆本を弟子が書写するときに、誤ってか、それともあえてか、そのように書き写したと思われます。第二句の「截五悪趣」の部分も、もとあった文字の上に重ねて書き直されていて(もとの文字は判読できません)、親鸞がこの二句にはおそらく何度にもわたって手を加えたものと考えられます。


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雲霧のしたあきらかにして [「『正信偈』ふたたび」その35]

(5)雲霧のしたあきらかにして

しかし、再度しかし、「たとへば日光の雲霧におほはるれども、雲霧のしたあきらかにして闇なきがごとし」と言われます。

ここには、先に上げました源信の有名なことば、「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」と同じ二重逆説の構造が見られます。この源信の文は、まずわたしは弥陀の「ひかり」の摂取のなかにあると述べ、次いで「摂取のなかに〈あれども〉」、煩悩によりその「ひかり」を見ることはできないとつづけます。そしてさらに「見たてまつることあたはずと〈いへども〉」、弥陀の大悲はわたしをつねに照らしてくださると締め括ります。このように二重の逆説でつながっているのですが、親鸞の偈文も同じように、まずわたしは摂取の心光のなかにあると述べ、次いで「すでによく無明の闇を破すと〈いへども〉」、貪愛瞋憎の雲霧がかかっているとつづけます。そしてさらに「たとへば日光の雲霧に〈おほはるれども〉」、その下は明らかでそこに闇はないと締め括っています。

無明の闇は破られた、〈しかし〉煩悩の雲霧がかかっている、〈しかし〉その雲霧の下は明るい、と二重の逆説になっているのです。

「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」もまたこの二重逆説の関係にあると言えます。「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」のなかで生かされている、〈しかし〉「わたしのいのち」は「わたしのいのち」として貪愛瞋憎のなかにある、〈しかし〉「わたしのいのち」はそんな「わたしのいのち」として「ほとけのいのち」に包み込まれている、というように。親鸞はこの関係を和讃でこう詠っています、「罪障功徳の体となる こほりとみづのごとくして こほりおほきにみづおほし さはりおほきに徳おほし」(『高僧和讃』「曇鸞讃」)と。「わたしのいのち」(の罪障)と「ほとけのいのち」(の功徳)は「一ならず(不一)」ですが「異ならず(不異)」です。


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貪愛瞋憎の雲霧 [「『正信偈』ふたたび」その34]

(4)貪愛瞋憎の雲霧

さて「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であると目覚めることが「無明の闇を破す」ことですが、そしてそれが救われたことに他なりませんが、しかしそのような目覚めに与ったからと言って、「わたしのいのち」を生きること自体はこれまでと何も変わりません。「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」に生かされていると気づいただけで、「わたしのいのち」はそのままであり、これからも「わたしのいのち」を生きなければなりません。そして「わたしのいのち」は「わたしのいのち」である以上、「煩悩のいのち」です。「わたしのいのち」であることは、それが「貪愛瞋憎のいのち」であるということです。

なぜなら「わたしのいのち」を生きることは、他の「わたしのいのち」たちと相剋しあわざるを得ないからです。

「わたしのいのち」をすべての生きものに広げますと、「わたしのいのち」は他の「わたしのいのち」を「食う」ことによってしかわがいのちを維持できないという厳然たる事実があります。世には菜食主義者もいますが、その人がひとり山にこもり菜食で生きていくなら別ですが、他の多くの人たちに支えられて生きるとしますと、その人たちは肉食でしょうから、間接的に他のいのちを「食う」ことになります。このような直接的な意味ではなくても、「わたしのいのち」を生きようとしますと、おのずから他の「わたしのいのち」との相剋となります。「わたしのいのち」を生きることは「わたしのもの」を持つことに他ならず、ものには限りがありますから、さまざまなものを廻って他の「わたしのいのち」たちとせめぎ合うことにならざるを得ないからです。

「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であることに目覚めたからと言って、「わたしのいのち」を生きることは何も変わらず、そして「わたしのいのち」を生きることは自他の相剋を生きることであり、貪愛瞋憎を生きることです。かくして「貪愛瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天をおほへり」ということになります。


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無明の闇を破す [「『正信偈』ふたたび」その33]

(3)無明の闇を破す

「ほとけのひかり」とは「ほとけの智慧」に他なりませんから(「ひかり」とは「気づき」に他なりません)、そのなかに「をさめ」とられ「むかへ」とられるということは、「すでによく無明の闇を破す」ということです。和讃に「無礙光如来の名号と かの光明智相とは 無明長夜の闇を破し 衆生の志願をみてたまふ」(『高僧和讃』曇鸞讃)とある通りです。さて問題はそのあとで、「貪愛瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天をおほへり」ときます。無明は破られたが、貪愛瞋憎はそのまま残っているということ、これをどう考えたらいいかということです。

無明は愚痴とも言われ、貪欲と瞋恚をあわせて貪・瞋・痴の三毒と呼ばれます(ただ、愚痴すなわち無明はあらゆる煩悩の根源の位置にあると考えられますから、貪欲・瞋恚と同じ平面に並べられることには不自然という感じはしますが)。としますと、無明(愚痴)は破られたのに、貪愛(貪欲)と瞋憎(瞋恚)は破られずに残るのはどうしてだろうと思います。無明があらゆる煩悩の根源であるとしますと、なおさら、無明が破られたら貪愛や瞋憎も当然破られるものと思われますが、そうではないというのはどうしたことでしょう。

無明と貪愛・瞋憎との関係をどう捉えればいいのでしょう。

無明とは縁起の理法に暗いこと、もっと分かりやすく、「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままですでに「ほとけのいのち」であることに目覚めていないことを指します。「わたしのいのち」はただひたすら「わたしのいのち」でしかなく、それを「わたしのちから」で生きていると思っていることです。したがって無明が破られたということは、「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であることの目覚めに与ったということです。われらは「わたしのいのち」を生きながら、そのままで、もうすでに「ほとけのいのち」を生きている、いやこう言うべきでしょう、「ほとけのいのち」が「わたしのいのち」を生きていることに気づかされたのです。

これが救われたということ、難しく言えば、正定聚の位についたということ、あるいは往生を得たということです。


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摂取して捨てず [「『正信偈』ふたたび」その32]

(2)摂取して捨てず

さて「摂取の心光」と言われ「心光常護」と言われる「心光」とは、目に見える「色光」に対して、目には見えず、心で感じる「ひかり」です。その不思議な「ひかり」に摂取される(包み込まれる)とされるのですが、この大元は『観経』の「真身観」にあります。阿弥陀仏の身相を観るという重要な箇所ですが、そこにこうあります、「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」と。読み下しますと「(弥陀の身体から発せられる)光明はあまねく十方世界を照らし、念仏衆生を摂取して捨てず」となります。親鸞は、この「弥陀の光明は念仏の衆生を摂取して捨てず」というところにもっともはっきりした救い(すなわち往生)のイメージを見ます。

親鸞は第十八願成就文の「かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん(願生彼国 即得往生 住不退転)」という箇所の「すなはち往生を得」についてこう注釈します、「真実信心をうれば、すなはち無礙光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを『往生を得』とはのたまへるなり」(『一念多念文意』)と。真実信心のときが弥陀の心光に摂取不捨されるときであり、そしてそれが正定聚となることであり、さらにそれがまた「往生を得」ることであるとはっきり言っています。

「ほとけのひかり」のなかに「をさめ」とられ「むかへ」とられること、これが救われること、往生することです。この救いのイメージに美しい表現を与えてくれたのが源信です。彼は『往生要集』のなかでこう言っています、「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」と(親鸞は「正信偈」の後半で、このことばをほぼそのまま偈とします)。「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのひかり」のなかに「をさめ」とられ「むかへ」とられているということです。


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