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チッタ・プラサーダ [『教行信証』「信巻」を読む(その111)]

(3)チッタ・プラサーダ

あらためて「信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無礙の信心海なり」という文を読み返してみますと、どうにも不可解な文だと思います。たとえば『尊号真像銘文』には「信楽といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり」とあり、すごく分かりやすく、そのまま素直に呑みこむことができます。ところが「信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無礙の信心海なり」ときますと、いったい「如来の信心海」とは何だろう、信心といえばわれらの信心のことではないのかと咽喉に引っかかってうまく呑みこめないのです。

そこで、そもそも信心とは何かをあらためて確認しておきましょう。『唯信鈔文意』の冒頭で「唯信」の「信」についてこう言われます、「信はうたがひなきこころなり、すなはちこれ真実の信心なり、虚仮はなれたるこころなり」と。ここから信心とは「疑いのない心」であり、それはまた「真実の心」であることが了解できます。また、信楽と訳されたもとのサンスクリットは「チッタ・プラサーダ」で、「チッタ」は心、「プラサーダ」は「澄んだ」という意味ですから、「澄んだ心」のことです(そこから『如来会』は「信楽」を「浄信」と訳していますし、ここでも「信楽」の代わりに「浄信」と言われることがあります)。この「澄んだ」というのは「疑いの濁りがない」という意味です。

このように見てきますと、「如来の信心海」ということばは、如来の心は「疑いの濁りのない澄んだ心」であると言っていることが了解できます。すなわち如来の「いのち、みな生きらるべし」という願心は、そこに疑いの濁りがまったくない澄みきった心だということです。如来は一点の曇りもない澄んだ心で「いのち、みな生きらるべし」と願っているのです。ここまできまして、先回りして検討しました「すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり」という文の意味がよりくっきりとしてきます。すなわち信楽のすべては如来回向の至心すなわち真実の心に収められているのであり、約めて言えば、信楽とは至心に他ならないということです。


タグ:親鸞を読む
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